誕生と家督相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:09 UTC 版)
尊氏は嘉元3年 (旧暦)(1305年)、足利氏当主の貞氏の次男として生まれた。確実な生誕地は不明で、足利氏の本貫(名字の根拠の地)である下野国足利荘(栃木県足利市)・上杉氏の本貫である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)・鎌倉幕府の本拠地である相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)などの説がある。日本史研究者の清水克行によれば、当時の足利氏は幕府の実質的支配者である北条得宗家と友好関係を保つため鎌倉に活動拠点を移していたため、鎌倉誕生説が2013年時点では最も有力な見解であるという。 母は貞氏側室の上杉清子(兄に貞氏正室の北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。元応元年(1319年)10月10日、15歳にして従五位下に叙し治部大輔に任ぜられる。また、同日に元服をし、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる。足利氏の嫡男は「三郎」を名乗る決まりになっていたが、兄であり貞氏嫡男の高義の死後であるにも関わらず「又太郎」と名付けられたのは、高氏ではなく高義の遺児が家督を継承することを貞氏が望んでいたからであると考えられる。15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹赤橋登子を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去する。足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。
※この「誕生と家督相続」の解説は、「足利尊氏」の解説の一部です。
「誕生と家督相続」を含む「足利尊氏」の記事については、「足利尊氏」の概要を参照ください。
- 誕生と家督相続のページへのリンク