誕生と化身ラマとしての認定
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「ジェプツンタンパ1世」の記事における「誕生と化身ラマとしての認定」の解説
ジェプツンタンパ1世は1635年にハルハ・トゥシェート・ハン部のゴンボドルジの子として誕生、4歳で戒をうけジュニャーナヴァジュラ(梵: Jñānavajra)という梵語の名を授けられた。彼に対するモンゴル語の通称のひとつ「ザナバザル」はこの名称のモンゴル訛りである。翌年、出家してロサンワンボ・ギェンツェンという法名を新たに受けた。1649年にチベットに巡礼し、パンチェン・ラマ、エンサ・トゥルク等に師事、1650年、ダライ・ラマ5世よりチョナン・ターラナータの転生者としての認定をうけ、1651年ハルハに帰国した。ここに化身ラマの名跡位ジェプツンタンパが成立した。
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誕生と化身ラマとしての認定
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「ジェプツンタンパ2世」の記事における「誕生と化身ラマとしての認定」の解説
ジェプツンタンパ2世は1724年にハルハ・トゥシェート・ハン=トゥンドゥプドルジの子として誕生、4歳でドインコルホトクト・ガワンロサンより沙弥戒をうけ、ロブサン・ダンビトゥンミ(ロサン・テンペートンメ)という僧名を授かった。1729年、ジェプツンタンパの移動教団「イヘ・フレー」は彼をジェプツンタンパ1世の転生者として迎え入れた。 1731年から1733年にかけて、オイラトがハルハに侵攻した際、南モンゴルのドロン・ノールに難を避け、和議が結ばれた1735年の後もこの地にとどまった。1738年に、清朝からもジェプツンタンパ1世の転生者としての認定をうけた。 1738年正月、北京に赴いて乾隆帝の謁見をうけ、厚遇をうけた。しかし、帰還が許されたのは1740年春で、ハルハに帰還したのは翌41年夏であった。
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