誕生と家族の死とは? わかりやすく解説

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誕生と家族の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:58 UTC 版)

ルイ15世 (フランス王)」の記事における「誕生と家族の死」の解説

曾祖父ルイ14世治世時の1710年2月15日王太子ルイ(グラン・ドーファン)嫡子ブルゴーニュ公ルイと妃マリー・アデライード・ド・サヴォワの3男としてヴェルサイユ宮殿生まれた誕生とともに彼は次男慣習的に与えられる儀礼称号アンジュー公、および国王曾孫としてプチフィス・ド・フランス(Petit-Fils de France)の称号与えられた。 祖父王太子ルイ唯一存命しているルイ14世嫡出子であり、王太子妃マリー・アンヌ・ド・バヴィエールとの間にはブルゴーニュ公ルイアンジュー公フィリップ(後のスペイン王フェリペ5世)、ベリー公シャルルの3人の息子がいた。 ルイ15世の母マリー・アデライード・ド・サヴォワサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世公妃アンナ・マリーア(ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の娘)の長女である。ブルゴーニュ公マリー・アデライード1696年トリノ条約によって婚約し1697年結婚した。この時代王族貴族では非常に珍しいことに、ブルゴーニュ公夫妻互いに愛し合い仲睦まじかった。 アンジュー公ルイ誕生によりブルボン家は、当時ヨーロッパで最多3世代6人の直系王位継承権者がいることになり、王位継承万全かと思われていた。1700年アンジュー公フィリップスペイン王位を継承しフェリペ5世として即位したこのためフランススペイン同君連合実現恐れたヨーロッパ諸国との間にスペイン継承戦争勃発している。 1711年王太子ルイ急死しブルゴーニュ公王太子となる(プチ・ドーファン呼ばれた)。これは不幸な出来事だったが、ブルゴーニュ公はまだ若く、またブルターニュルイとその弟アンジュー公ルイ2人の息子がいた。だが翌1712年2月12日に妃マリー・アデライード天然痘(あるいは麻疹)で薨去すると、事態劇的に変わる。病気の妻に長時間付き添っていたブルゴーニュ公罹患し6日後に薨去してしまう。更に、幼いブルターニュ公とアンジュー公兄弟もこの病に罹患したブルターニュ公は瀉血治療が元で3月8日薨去する。アンジュー公ルイのみが、養育係のヴァンタドゥール夫人瀉血治療拒否して死を免れた。こうして、一人残された幼いアンジュー公ルイフランス王継承第1位となり、王太子ドーファン)となる。ブルボン家の不幸は続き1714年アンジュー公叔父ベリー公シャルル狩猟中に事故死している。

※この「誕生と家族の死」の解説は、「ルイ15世 (フランス王)」の解説の一部です。
「誕生と家族の死」を含む「ルイ15世 (フランス王)」の記事については、「ルイ15世 (フランス王)」の概要を参照ください。

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