計画立案から開業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:02 UTC 版)
村松藩3万石の藩庁・村松城の城下町で、また大日本帝国陸軍歩兵第30連隊の駐屯地を擁する軍都でもあった中蒲原郡村松町は、蒲原地方における政治・物流の中心地として古くより繁栄した地域であった。しかし、村松町は近隣に敷設された北越鉄道(現・信越本線の一部)および岩越鉄道(現・磐越西線)のルート選定に際して、いずれの敷設ルートからも外れ、さらに歩兵第30連隊が設立された明治29年に出願された蒲原鉄道、村松鉄道も却下されてしまった。時代はながれ大正時代になると同町内にも鉄道路線を敷設したいとする地元有志の要請が高まり、また陸軍側からも物資輸送に供する目的で鉄道敷設を要望された。それらを受ける形で、中蒲原郡川内村において白滝鉱山を保有する日本電気製鉄の社長職にあった元鉄道省運輸局長の朝比奈林之助を中心とした発起人40名で、磐越西線五泉駅より村松町を経由して川内村に至る路線を第一期開業区間、ならびに村松町より分岐して信越本線加茂に至る路線を第二期開業区間として、1919年(大正8年)7月に第一期開業区間について敷設免許を申請し、翌1920年(大正9年)1月29日付で免許された。資本金は40万円(8000株)でその1/3を日本電気製鉄もしくは朝比奈が引き受けることであったが、地方鉄道補助法による補助金を得られることから50万円に変更し同年3月から株式の募集を始めた。 しかし、敷設免許が下りた同時期には、第一次世界大戦終戦に伴う戦後恐慌によって鉄価格が暴落したことから、鉄鉱石を産出する白滝鉱山も事業縮小を余儀なくされた。また五泉町や村松町、近郷の資本家からの株式応募も芳しくなく鉄道計画は停滞していた。ようやく2年後の1922年(大正11年)に資本金28万円(5600株)として会社設立にむけて動き出した。この時に朝比奈は創立委員から抜け、村松町、菅名村、川内村、十全村の有力者が中心となった。定款を作成しなおし、第一期開業予定区間のうち、白滝鉱山から産出される鉄鉱石輸送を主眼として計画された村松町 - 川内村間については建設計画を白紙化し、五泉 - 村松間を第一期開業区間とするよう計画を変更した。その後、村松駅の設置箇所を巡って発起人間で対立が生じ、会社設立に伴う株式募集に際して証拠金払込を拒否する発起人も現れる事態を招いたが、最終的に証拠金払込を拒否した発起人を除名することで事態の収拾を図り、1922年(大正11年)9月22日に蒲原鉄道株式会社(資本金25万円)が設立された。 翌1923年(大正12年)3月18日より建設が開始され、同年10月20日に五泉 - 村松間 (4.2km) が開業した。軌間1,067mmの電化路線(直流600V・架空電車線方式)として開業した蒲原鉄道線は、新潟県下における初の電化路線であった。村松町 - 川内村間の建設はその後断念され、1927年(昭和2年)3月31日に村松 - 加茂間の第二期開業区間の敷設免許を取得、しかし昭和金融恐慌の時期でもあり資金調達に苦労したが金津村の石油王中野忠太郎の助力により解決できた。1930年(昭和5年)7月22日に村松 - 東加茂間 (15.2km) が、同年10月20日には東加茂 - 加茂間 (2.5km) がそれぞれ開通し、五泉 - 加茂間 (21.9km) の全線が開通した。 なお、燕方面への延伸計画もあったと言われている。
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