薬用植物として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 01:05 UTC 版)
中国人は本種の近縁種(大黄)の根を数千年にわたって薬用としてきた。西暦紀元前後(漢代)に成立したとされる『神農本草経』 にも記載がある。 古代ギリシアでも知られており、医師ディオスコリデスが記録した "ρηον" または "ρά" と呼ばれる薬草の根が現在ヨーロッパ圏のルバーブ(ダイオウ属)と考えられる。ルバーブはボスポラス海峡経由でギリシアに伝えられたが、交易ルートの確立はかなり後のイスラーム時代で、シルクロードを通って運ばれた。14世紀にアレッポとスミルナの港を通じてヨーロッパに運ばれたルバーブは、「ターキッシュ・ルバーブ (R. palmatum)」と呼ばれた。後には別の海上交易路やロシア経由の陸路が開拓された。交易ルートによって「インディアン・ルバーブ」「チャイニーズ・ルバーブ」など様々な名がつけられたが、これらが種や産地の違いを意味するかは明らかではない。ロシア帝国では特にルバーブを対象とした品質管理制度があり、18世紀ヨーロッパでは「ロシアン・ルバーブ」が最も珍重された。 中世ヨーロッパではアジアを横断して運ばれてくるルバーブは高価であり、シナモンやアヘン、サフランのような高価なハーブやスパイスと比べても数倍の値が付いた。商人にして冒険家のマルコ・ポーロはルバーブの生産地を探し求め、タングート人が住む土地の山間部で栽培されていることを発見した。ティムールの治世に1403年から1405年までサマルカンドで大使を務めたルイ・ゴンザレス・デ・クラビホは、報告書の中でルバーブの価値を「サマルカンドに集まるあらゆる商品の中でも最上のものは中国から来ていた。とりわけ絹、サテン、麝香、ルビー、ダイヤモンド、真珠、そしてルバーブ」と伝えている。 高価であったことと、薬剤師からの需要が増えたことにより、ヨーロッパの地でルバーブを栽培する取り組みが行われた。17世紀初頭、ルバーブに似た根を持つ植物がブルガリアのリラ山脈に自生していることが発見された。当時のヨーロッパでは根として輸入されたルバーブしか知られていなかったため、この発見は驚きを持って受け止められた。後に R. rhaponticum と命名されたこの品種は薬用として広く栽培された。18世紀になると、シベリア原産とされる R. rhabarbarum、中東原産 の R. ribes、中国原産 の R. palmatum などの導入が始まり、おそらくこれらの混交によって現在一般にみられるルバーブが生まれた。19世紀半ばには純粋種の栽培はほぼ行われなくなったと見られる。 「分類学の父」とされる博物学者カール・フォン・リンネは、ヨーロッパの最貧国に数えられていた祖国スウェーデンに茶、コーヒー、ココナッツなどの商品作物を導入しようと試みた。その多くは失敗に終わったが、数少ない例外がルバーブであった。晩年のリンネはルバーブの導入を「私のもっとも誇らしい業績」と呼んだ。
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