花傘鉾神事
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8月最終の土、日曜日の2日間にわたって中津平野を巡る神幸祭が行われる。神幸はお鶴と小市郎の霊を慰めると共に当年の豊作を祈願するためのものとされ、長寛2年(1164年)に始められた。輿丁(神輿の担ぎ手)には、お鶴と小市郎が井手に込められる際に載せられた白木の輿を担いだ者の子孫が当てられたという。明治維新までは湯屋村(現中津市大字湯屋)、藍原村、万田村(同万田)、高瀬村(同高瀬)の4箇村による祭礼で、藍原村から槍10本、湯屋村から鉄砲10挺、万田村から弓10張、高瀬村から毛槍10振が出て神輿に供奉し、藩庁から警固のための臨監役も派遣されて大名行列に等しい厳重さを呈していた。 延宝8年(1680年)以降はこれに傘鉾が供奉するようになったといい、維新後に中津平野に位置して大井手の灌漑の益に浴する市内14の大字が加わり、計19大字(神幸の際に高瀬は北高瀬と南高瀬に分かれる)が傘鉾を1基宛出して参加する形になった。 祭日は古く10月25日とお鶴小市郎の忌日である8月15日であったが、後に8月1、2両日となり、さらに8月24、25両日と改められ、昭和54年(1979年)から参加者が集まりやすいよう現行の8月最終土、日曜日とされた。 祭礼初日は本殿での祭典後に神霊を神輿に遷し、午前9時に10基の傘鉾が神輿を先導して神社を出発、途中大字下池永で更に9基の傘鉾が合流して市内19の各大字を一巡する形で巡幸路おおよそ30キロから40キロに及ぶ神幸が行われ、22時頃に大井手のある河原(鎮座地のおよそ300メートル北方)に設えられた行宮(御旅所)に着御して一夜を過ごす。2日目は19時半に19基の傘鉾が河原の堤防上に整列して行宮祭を斎行し、その後に神輿が山国川を対岸まで渡る「川渡り」が行われ、21時半頃に本殿に還御する。なお、巡幸順路と傘鉾の並び順は毎年籤で決められるが、8人から成る輿丁は大字湯屋の者が当てられ、神輿に最も近い最後尾の傘鉾も湯屋のそれと定められている。 傘鉾は2名で担ぐ太鼓を載せた台と、頂上に御幣を挿した轆轤を付けて周囲には赤色の羅紗地の水引幕を張り廻らした大傘とから成り(ただし傘鉾は平成7年(1995年)の少し以前から担ぎ手不足により荷車に載せて曳行する形となった)、それぞれに太鼓の打手1名、笛2名、チャンガラ(摺鉦)2名の楽員が付いて祭囃子を奏でながら供奉する。大傘の水引に描かれる図案は大字毎に異なり、中には金糸や銀糸等で豪華に刺繍されたものも見られる。また、大傘頂部の轆轤から竹籤を垂らしてそれに紙製で種々の色の造花を付け、それが水引の模様を隠す程に多く目立つために「花傘鉾」とも称されるが、花を多く付ける工夫は平成7年(1995年)少し以前からの趣向である。 本神事は昭和56年(1981年)に市の文化財に指定された後、平成21年(2009年)には県の無形民俗文化財に指定された。
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