鶴女市太郎伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/25 09:05 UTC 版)
保延元年(1135年)、この地区の山国川の堰は度重なる洪水で決壊し、農民は困り果てていた。当時沖代平野を治めていた湯屋弾正基信・宮永左兵衛義成・万田左京盛堯・藍原(相原)内記有之・中殿八郎兵衛国直・一松(ひとつまつ)六郎兵衛清氏・小畑四郎右衛門宗重ら7人の地頭が改修工事に取り掛かったが、予想外の難工事で失敗の連続であった。そこで湯屋基信が人柱を立てることとを提案し、7人の地頭も同意したものの、今度は誰もが自分が人柱になると主張した為に結論が出ず、各々の袴を山国川に流して最初に沈んだ袴の持ち主を人柱にすることと定めた所、基信の袴が最初に沈んだので基信が人柱になることとなった。発議者であり人一倍責任感の強い基信は、自ら人柱になろうと予め袴に石を縫い込んでいたという。基信が人柱となるべく身を清めていた所、基信家臣の古野源兵衛の娘お鶴とその子市太郎が、主人を人柱に立てることは出来ない、自分たちが身代りになると申し出、初めはこれを拒んだ基信も遂にその熱誠に負けて承諾し、8月15日にお鶴と市太郎母子は白無垢に身を包み、山国川に入水した。2人が入水した時、川底から2羽の金色の鳩が飛び立ち宇佐八幡宮を目指して飛んで行ったので、人々は両人の霊を鶴市八幡社に合祀するとともに、自ら犠牲となったその精神に発奮して時をおかずに壮大な堰を完成させたと伝え、毎年8月の最終土曜日・日曜日に斎行される鶴市花傘鉾神事(大分県指定無形民俗文化財)は母子の霊を弔い豊作を祈願する神事とされる。 なお、この伝説には鶴市八幡社の縁起(「八幡鶴市神社」参照)を始め、お鶴を基信の妻とするもの、人柱を立てる事を薦めたのは宇佐から来た3人の娘で、お鶴市太郎が人柱となった際には宇佐の八幡神が示現したとするものといった大同小異の異伝があって、母子を人柱に立てたという伝説には古代の水神の祭りや母子神信仰の関与が考えられる。
※この「鶴女市太郎伝説」の解説は、「大井手堰」の解説の一部です。
「鶴女市太郎伝説」を含む「大井手堰」の記事については、「大井手堰」の概要を参照ください。
- 鶴女市太郎伝説のページへのリンク