花の梅沢旅団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 08:16 UTC 版)
梅沢道治の名を上げたのは、日露戦争における沙河会戦での奇跡的な奮戦であった。梅沢はそれまで、軍歴は重ねていたものの特に目立った軍功もなく、平時はパッとしなかったため、大佐の連隊長止まりで予備役編入との噂が絶えなかったほどであった。日露戦争出征のおまけのような形で少将に進級したが、指揮を任されたのが後備部隊であったことからもその期待のなさがうかがえる。 後備部隊とは、兵役を終えた者を再度召集した後備兵が中心で、年齢的にもかなり高く、また、内地に妻子を残しているものも多く居たため、現役兵に比べて士気が低く、戦力として現役兵の部隊よりかなり劣るというのが常識であった。また武器も旧式装備(村田銃)が主であり、なかにはロシア軍からの鹵獲兵器などもあり、その補充には特別の配慮が必要であった。全般的に兵力不足に陥っていた日本軍は後備部隊も前線に貼り付けるしかない状況に陥りつつあったが、本来ならば前線の支援や占領地の警備にあたるべき部隊である。 ところが、梅沢はこの二級部隊を見違えるような戦闘部隊に変貌させた。梅沢は絶えず部下に対して現役兵に負けない自信を持たせ、士気が落ちないよう気を配り、部隊の歌まで作った。また何より梅沢自身が無類の「いくさ上手」であることがわかり、部下から絶対的な信頼を得た。これが証明されたのが1904年(明治37年)10月8日から始まった沙河会戦である。 遼陽会戦後、日露両軍は沙河をはさんで対峙していたが、日本軍右翼に位置したのが第1軍であり、その陣地のうち、最もロシア軍陣地に向かって突出していたのが、本渓湖付近を守備する梅沢指揮下の近衛後備混成旅団であった。満州軍総司令部は梅沢旅団に退却命令を出すが、正午過ぎ、3倍以上のロシア軍大部隊が襲来した。梅沢旅団は寡兵をもって必死で守り、激闘3時間あまりで撃退に成功した。しかし翌日さらに大規模に編成されたロシア軍が猛烈に攻撃してきた。梅沢旅団は再び悪戦苦闘を重ねながら支え続けた。本渓湖陣地が勝敗のカギを握ると見た第1軍司令官黒木為楨大将は、第12師団と騎兵第2旅団を援軍に差し向けた。騎兵第2旅団は日本軍最右翼を迂回し、本渓湖付近で足止めを食っていたロシア軍の左から機関銃による横撃を浴びせた。これでロシア軍は大混乱し、退却した。この退却は、日本軍右翼を突破して旋回し、日本軍左翼を包囲しようとするロシア軍の作戦企図を大きく狂わせた。結局その後1週間にわたり日本軍と正面衝突を繰り返し、退却を余儀なくされた。 この奮戦により、「花の梅沢旅団」と全軍にその名がうたわれ、梅沢は一躍名将となった。旅団そのものも、後備歩兵聯隊を増強され、歩兵3個聯隊編成という異例の大旅団となった。 梅沢は、持病にリューマチを患っていたが、症状が出ると、寝ると立てなくなると言って椅子に座ったまま不眠不休で指揮をとったという。
※この「花の梅沢旅団」の解説は、「梅沢道治」の解説の一部です。
「花の梅沢旅団」を含む「梅沢道治」の記事については、「梅沢道治」の概要を参照ください。
- 花の梅沢旅団のページへのリンク