自沈・浮揚(1943-1945)
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「コンテ・ヴェルデ (客船)」の記事における「自沈・浮揚(1943-1945)」の解説
1943年(昭和18年)9月11日、上海に停泊中のコンテ・ヴェルデは、9月8日に連合国に降伏したイタリア本国政府の指令に基づいて船底を爆破し、擱座・横転した。この時、日本占領域にあったコンテ・ヴェルデを含む合計17隻のイタリア艦船が自沈している。日本接収を嫌ったイタリア人船員によるものだったが、この事件は日本政府の心証を悪化させ、その後イタリア社会共和国につくことを拒否した在日イタリア人の過酷な処遇の一因になったとされる。コンテ・ヴェルデの乗組員は全員日本軍に拘留され、工場勤務等を命じられた。その後、連合国軍の空襲により、多数の乗組員が死傷した。 横転したコンテ・ヴェルデは、日本海軍によって護衛空母へと改装する事も考えられたが、1944年(昭和19年)6月、日本軍はコンテ・ヴェルデの船体を輸送船として再利用するため、姿勢復元と浮揚に着手した。復元作業半ばの8月8日、アメリカ軍のB-24爆撃機による夜間奇襲を受けて被害を出すが、コンテ・ヴェルデの船体は12月までに再浮揚に漕ぎ着け、壽丸と改名の上で江南造船所(現・江南造船)で修理を行った 。造船所では、ボイラー8基のうち4基、タービン2基、発電機2基などを修理し、1945年(昭和20年)4月には自力航行ができる状態まで復旧した。壽丸は4月11日に砲艦宇治と駆逐艦蓮が護衛について黄浦江を下り、4月22日には海防艦5隻が護衛を引き継いで出航。空襲や触雷に見舞われながら、舞鶴港へと回航された。しかし、5月8日に米軍機の襲撃を受けて沈没した。沈没の原因はアメリカ軍のB-29が舞鶴港に投下した機雷に触雷したためとも言われている。 海軍は再び浮揚を試みたが、7月25日に再び空襲を受け大破・擱座し、そのまま終戦に至った。1949年(昭和24年)6月、壽丸の船体は飯野産業により再浮揚され、1950年(昭和25年)にイタリア政府に返還されたが、1951年(昭和26年)8月にスクラップとして三井造船に売却された。
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