自治と治外法権
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明治政府は1868年8月7日(慶応4年6月19日)に成立した「大阪兵庫外国人居留地約定書」において、外国人に対して居留地における一定の行政権と財政権を認めた。具体的には居留地内のインフラ整備・治安維持を中心とする自治行政を行うための最高議決機関として居留地会議を創設し、その運営費用には居留地の競売代金の一部と地税・警察税(地税と警察税の徴収は居留地側が行うことができた)を充てることを認めた。居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた(なお、長崎や横浜の居留地にも当初は自治権があったが、途中で放棄されている)。また、各国政府は神戸外国人居留地周辺に領事館を開設し、自国の経済的利益と国民を保護し領事裁判権を行使する領事を置いた。 最高議決機関である居留地会議は、各国の領事と兵庫県知事、選挙によって選ばれた居留地の住民代表(行事)3名によって構成された。居留地会議議長は領事の代表が務めることが多かった。居留地会議の会議は英語で行われ、議事録は新聞で公表された。居留地会議の執行機関として行事局が設置された。行事局には3名の委員がおり、行事局長によって統括された。初代の局長は C・H・コブデンで、後任のヘルマン・トロチックが1872年(明治4年/5年)から居留地返還まで局長を務めた。トロチックは1874年(明治7年)4月に居留地警察署が設置されるとその署長を兼務した。重要案件については居留地会議の下に設けられた委員会において検討され、その報告を基に居留地会議が決定を下すというプロセスが採られた。 外国人による自治が認められたことで、居留地内において立ち入りや警察権の行使など日本側の権利・権限は制限された。また、日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約によって領事裁判権が認められ、条約の適用対象となる居留外国人が当事者である法的紛争については外国領事による裁判が行われた(自治権については属地主義が採られ居留地内にのみ及んだのに対し、領事裁判権については属人主義が採られ、居留地外の紛争にも及んだ。もっとも実際には、外国人が居留地外においても居留地内と同様の治外法権を主張し、日本側とトラブルに発展することもあった)。
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