自治とドイツ軍による占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 14:50 UTC 版)
「コンスタンティン・パッツ」の記事における「自治とドイツ軍による占領」の解説
1917年、ドイツ軍がエストニアに進撃したが、パッツは徴兵を忌避することに成功した。二月革命以降、エストニアの支配権はロシア臨時政府が握っていたため、エストニア人はロシア帝国内での自治を追求していた。国内ではエストニアをそのまま自治区とするか、あるいは二つの自治区に分割するかの論争が持ち上がっていたが、パッツは一つの自治区とする側に立ち、分割を支持するトニッソンを破った。ほどなくペトログラードでエストニア人が蜂起したため、1917年4月12日、ついに臨時政府はエストニア自治区の設置を承認した。エストニア自治議会が選出されたとき、パッツは議員となり、しかも55議席のうち13を占めるエストニア祖国同盟を率いる立場となった。左右両翼が同数の議席を獲得し、議長の選出は難航した。中道右派のトニッソンの推薦により立候補したパッツは、当時無名であったアルター・バルナーの一票を除く全ての票を得て当選した。 パッツは最初、どの院内会派にも所属しないことにしていたが、最終的には最右翼の民主主義会派に所属した。1917年10月12日には臨時政府の議長、ヤーン・ラモットに取って代わる。十月革命の際は、ボリシェヴィキがエストニアの支配権を握ったため議会は解散させられてしまった。公文書の引き継ぎに失敗したため、パッツは三度逮捕され、最終的には地下活動へと潜行した。 とはいえエストニアにおけるボリシェヴィキの力は比較的弱かったので、議会の長老たちは1917年11月28日、議会は合法的に選出されたエストニア唯一の権威であるとの宣言を発した。しかし、長老たちの組織は地下活動をするには大きすぎたので、1918年2月19日、パッツを含む3人で構成されるエストニア救世委員会が発足した。 ソビエト軍が退却を始める中、救世委員会はこの空白期間を利用して独立を宣言しようと考えた。そして2月21日、パッツらは独立宣言を発表するため、ハープサルに赴いた。しかし、その日のうちにドイツ軍がハープサルを占領し、委員会はタリンへの後退を余儀なくさせられた。またタルトゥにもドイツ軍より前に到着しようと試みたが、これも失敗に終わった。 ソビエト軍はとうとうドイツ軍が来る前に撤退した。1918年2月24日、救世委員会はエストニア独立宣言を発表した(宣言は23日既に独立宣言を発していたパルヌにも伝達された)。ただちにエストニア臨時政府が組織され、パッツは内務大臣として閣僚評議会の議長に就任した。 翌2月25日、ドイツ軍がタリンを占領し、パッツは6月16日に逮捕された。ラトビアの幾つかの収容所をたらい回しにされた末に、フロドナに落ち着いた 。その年の11月12日、終戦に伴って解放された。 パッツがタリンに戻ると議会が招集され、11月27日、第三次パッツ内閣が組織された。この内閣でパッツは首相と陸軍大臣を兼任し、国防計画を任された。
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