自動車の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/17 08:41 UTC 版)
「コロンバス (ネブラスカ州)」の記事における「自動車の時代」の解説
1911年、カンザス州サライナで国際メリディアン・ロード協会が設立され、西経97度線にほぼ沿ってウィニペグからテキサス州ラレドへ、そしてメキシコシティへと至るメリディアン・ハイウェイの建設プロジェクトが立ち上げられた。同年9月、コロンバスでの会合で、このプロジェクトの発起人ジョン・ニコルソンがこの道路の建設の支持を呼びかける演説を行い、ネブラスカ・メリディアン・ロード協会が発足した。大陸を南北に縦断するこの道路は、コロンバスでプラット川およびループ川を橋で渡ることになった。1922年、この道路は州道に指定された。1924年、サウスダコタ州ヤンクトンでサウスダコタ・ネブラスカ州境になっているミズーリ川にメリディアン・ハイウェイ橋が架けられ、季節運航であった渡し船から代えられたことにより、この道路はカナダからメキシコまで通年通行可能になった。1928年、この道路は国道81号線に指定された。 1913年、大陸を東西に横断する道路として、リンカーン・ハイウェイが開通した。ネブラスカ州内においては、この道路はプラット川に沿って通り、ひいては、その約半分はユニオン・パシフィック鉄道のすぐ隣を通った。この道路もまた、コロンバスでループ川を橋で渡った。1926年、この道路は国道30号線に指定された。 大陸を横断・縦断するこれら2本の自動車道が交わる立地から、20世紀初頭のコロンバスの中心部では商業が発展し、ホテルの増築や新築が相次ぎ、車庫も造られた。また、自動車での通行者にとってコロンバスをより魅力のある町にするため、市は街灯の設置や街路の舗装を進めた。1925年頃までには、市内の主な街路は全て舗装され、23rdアベニューから29thアベニューまでの13thストリート沿いには商用の建物が建ち並んだ。 世界恐慌の影響で、1930年代のプラット郡の農村部は壊滅的な打撃を受けた。第一次世界大戦中の穀物や家畜の価格高騰は農地にバブルをもたらし、農家は農地を広げるために新しく購入した土地のみならず、既に所有していた土地をも抵当に入れていた。世界恐慌で農地や農産物の価格が暴落し、そこに1934-36年の干ばつによる不作が追い討ちをかけ、農地を手放さざるを得なくなる農家が続出した。 一方、コロンバスの市民・商人のリーダーはその時代、地元の建設プロジェクトに対する連邦や州の出資を積極的に求めた。1931年、メリディアン・ハイウェイおよびリンカーン・ハイウェイの両方がユニオン・パシフィック鉄道の線路をまたぐメリディアン陸橋が完成し、同線の平面交差が解消された。また、1930-31年にかけて老朽化したプラット川の橋が架け替えられ、1932-33年にはループ川に新しい橋が架けられた。
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