臥龍梅
臥龍梅(がりゅうばい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 02:34 UTC 版)
「東方茨歌仙 〜 Wild and Horned Hermit.」の記事における「臥龍梅(がりゅうばい)」の解説
地に着いた枝が根になった梅の木のこと。博麗神社にある梅の木もこれにあたる。霊夢はこの木を御神木にしたために信仰が宿り、枝から漏れ出した霊が神社に大量発生した。
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臥龍梅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 01:25 UTC 版)
「普光寺 (大牟田市)」の記事における「臥龍梅」の解説
臥龍梅(がりゅうばい)は境内にある樹齢450年以上と推定されている八重咲きの紅梅。樹形が、「伏せている龍の姿」に見えることから命名されている。全長約28メートル、高さ約3メートル。 1958年に福岡県の天然記念物に指定された。 開花の時期には毎年約1万人が観梅に訪れる。
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臥龍梅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:34 UTC 版)
江戸時代、江戸の東はずれに亀戸天神があり、ここから東は民家が切れ、田畑ばかりが広がっていた。亀戸天神から北東400メートル足らずの場所に臥龍梅があった。農家の梅であるが、享保九年に吉宗が隅田川辺への鷹狩の途次立ち寄って、世に知られた。創始の伊勢屋彦右衛門という人は本所に住む商人であったが、風雅を好んで別荘を造って、梅を楽しんでいた。梅は成長して奇木となって、龍が地面に臥すような形で四方に枝を伸ばした。地に着いた枝から根を生じ、そこから新しく枝を出すというように、周りに広がっていった。伊勢屋の子孫はここに住んで農業を営み、臥龍梅を育て続けた。吉宗が来て以来、臥龍梅は御用木となっていたのである。寛政4年(1792年)頃には、元の臥龍梅は枯死したが、枝から次々と根を出すので、二代、三代と臥龍梅がついていた。臥龍梅は、一本から分かれた梅だけであったものを、遊客が増えるにつれて、梅を数百本に増やし、茶屋を作って客をもてなすようになった。臥龍梅が梅屋敷へと発展したものである。
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臥龍梅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 05:36 UTC 版)
この梅園にある臥龍梅には、次のような言い伝えがある。 1192年(建久3年)、藤原信近という者が禁裏守護の任から退きこの地に居を構えた。その子の近里は神仏を篤く信仰し、孝行者として知られていたが、ある日、薪をとりに山に行った時に誤って右脛の骨を折り、足が不自由になった。 ある晩、近里の夢に翁が現れ、太宰府天満宮に祈願すれば怪我は癒えるとのお告げがあった。そこで近里は太宰府に詣で17日間参籠した。すると、満願の夜に貴顕の士(菅原道真)が現れ、梅の枝を授けるので、これを自分と思って祈願すれば怪我は平癒すると告げた。 翌朝、目覚めると、近里のそばには一枝の梅の花が置かれていた。近里がこれを持ち帰り土に挿すと、梅の樹は青々と育ち、その成長につれて近里の怪我も平癒した。幹が曲がりくねり、地を這うように茂った梅の樹は、その姿が地に臥した龍のようであることから、臥龍梅と呼ばれるようになった。
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