考古学者としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 13:56 UTC 版)
「マリア・ライヒェ」の記事における「考古学者としてのキャリア」の解説
ライヒェは1940年にロング・アイランド大学(英語版)出身のアメリカ人考古学者ポール・コソックの助手となる。 1941年6月、コソックはナスカの直線が南半球の冬至点に収束することに気付き、ライヒェと共にナスカの直線の地図の作成を始め、天文現象との関連性を評価し始めた。後にライヒェは直線が夏至点にも収束することを発見し、大規模な天の暦としての機能を持つと提唱した。1946年頃、ライヒェは代表的な図形の地図も作成し、18の異なる種類の動物と鳥からなることを決定づけた。コソックが1948年にペルーを離れた後も彼女は仕事を続け、地域一帯の地図を作成。彼女はナスカの人々がどのように大規模な図形を描いたのかを数学的に分析し、これらの図形に非常に洗練された高精度な数学が用いられていることを発見した。ライヒェは、地上絵は太陽暦および天体観測台として使われたという説を提唱。 地上絵の全景を見ることができるのは上空からのみであるため、彼女はペルー空軍の協力を得て写真調査を行った。彼女は自説を "The Mystery of the Desert" という本に著し、巨大な猿の絵はおおぐま座を模したものであると信じた。この著書には他の学者から様々な反応があり、直線は主に天文学的な目的で作られてはいないと言う反応が主なものだったが、ライヒェとコソックの功績は学術的な資源となった。広く信じられている説は、雨乞いに関係する宗教的な儀式や崇拝に使われていたと言うものである。 ライヒェは "The Mystery of the Desert" の利益を砂漠保存運動や、護衛やアシスタントを雇うために使った。地上絵の一帯はパンアメリカンハイウェイから近かったため、道路による分断や様々な政府の開発計画から地上絵を守るよう提言したり、一帯への一般の往来を制限するよう政府を説得するなどし、自分の財産のほとんどをその運動に費やした。一方で、ハイウェイの近くに塔を建設し、観光客が地上絵を見やすいようにもした。 1977年、ライヒェは非営利団体である "South American Explorers" の創設メンバーとなり、組織の諮問委員会を務め、直線の意義や重要性についてのインタビューを受けた。 彼女の業績が学術的に認められたのは限定的であったものの、ナスカの地上絵を国際的に知らしめることには成功した。彼女のこの貢献により1994年、ユネスコはナスカの地上絵を世界遺産に登録した。また、彼女の死後には生前に住んでいた家が、マリア・ライヒェ博物館として公開された。 1993年、功労十字勲章 (Medal of Merit in the Degree of Great Cross) を授与され、1994年にはペルー市民となった。 彼女の生誕115周年に当たる2018年5月15日には、彼女のDoodleが公開された。
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