考古学者の視点
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『玉とヒスイ 環日本海の交流をめぐって』(1992年)の著者、藤田富士夫は自著で『万葉翡翠』に触れ、八木助教授の研究成果には明らかに清張の考えが投影されていることを指摘した。その上で藤田は「求めて得まし玉かも」の歌が翡翠の売買(すなわち交易)であるとする清張の意見を「従来の文学研究者には見られない意見で、私も基本的に同意する」と賛意を述べた。 考古学者の寺村光晴は『日本の翡翠 その謎を探る』(1995年)で「万葉集とヌナカハ」について、江戸時代からの論議を取り上げた。最初にこの歌を「越後国沼川郷」(現在の新潟県糸魚川市付近)に比定したのは本居宣長であったが、宣長の説は万葉研究者にも歴史学者にも長年にわたって無視され続けた。次にこの歌を考古学の観点から注目したのは、樋口清之である。樋口は歌の内容が河底の玉原石の採取や転売を伝えたものとして翡翠との関係を説いた。翡翠が実際に発見された後の1962年になって、中川幸廣は国文学の観点から「沼名河」は実在の川であるが『万葉集』の編纂者には空想上の天上の川と位置付けられたものとした。寺村も中川の説について、古代文学上の観点と万葉集の基礎的研究から導き出されたものとして同意している。 寺村は『万葉翡翠』について「もちろんフィクションであろう。しかし、小説の中に語られているヒスイ探求の過程は、日本におけるヒスイの追求過程の一端をしめすものとして、興味深いものがある」と評した。
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