結晶化学の仁田スクール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 02:21 UTC 版)
阪大教授の時代と関学教授の時代を通じて仁田のもとで、卒業研究をした学生は優に116名を超える。その人たちは卒業後は全国に広がって、各地の大学やさまざまの業種の企業で活躍した。多くの大学の薬学部にX線構造解析の芽ができたし、薬品会社の研究所でもX線回折を重要なツールとするところが増えた。大学で助教授(準教授)以上になった人は少なくとも38人いる。それらの芽は着実に育ち、ネズミ算的に増殖して、全国に大きな仁田スクールの輪が形成された。これにはX線結晶学だけでなく、結晶物性のグループ(特に熱物性)も含まれるが、最大のグループはX線回折、中性子回折、中性子非弾性散乱で、現在第一線で活躍しているX線解析の研究者はもとをたどると仁田研究室まで遡る人が非常に多い。これはX線回折の方法が化学、物理、薬学、工学、生物学などのあらゆる分野で極めて強力な研究手段にまで進歩したことはもちろんであるが、仁田の人脈の広さと、雑誌「X線」の刊行など普及のための活動が背景にあった。タンパク質など大きな生体分子の構造を解明するのに、現在強力な武器として全国共同利用されているSPring-8の放射光施設を設立したのも卒業生である。仁田は初期には毎週のコロキュウムのあと研究室の全員を引き連れてビールを飲みに連れて行くこともあった。年末にはすき焼きの忘年会が定例行事であった。その場所が、現在は立ち入りも制限されている阪大の歴史的な施設である「適塾」だった。緒方洪庵の時代を偲び、刀傷が残る柱を背にして食べるすき焼きは学生には強い印象を与えた。仁田研究室に在籍したことのある人々の親睦の会として「晶華会」が自然発生的に誕生し、初代会長には一門の最古参である渡辺得之助が就任した。渡辺は東京工業大学の前身である東京職工学校(蔵前工業会)を卒業して理研に就職し、同じ時期に仁田と理研にいて知己があった。仁田が阪大に移るとき渡辺から希望して阪大で助手となった。それ以来仁田の部下として、同僚として、共同研究者として終始仁田を支えた。仁田が多くの外部機関の役職をこなしながらも、研究室を国内、国外から見て活発に保つことができたのには渡辺の存在が極めて大きかった。 仁田は多くの機関の役職を努め、多くの著書を著した。また数々の賞や章を受けた。それらは資料として末尾にまとめた。
※この「結晶化学の仁田スクール」の解説は、「仁田勇」の解説の一部です。
「結晶化学の仁田スクール」を含む「仁田勇」の記事については、「仁田勇」の概要を参照ください。
- 結晶化学の仁田スクールのページへのリンク