組合内派閥と組織分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:11 UTC 版)
「国鉄動力車労働組合」の記事における「組合内派閥と組織分裂」の解説
1957年(昭和32年)、国鉄動力車労働組合と改称し再スタートし、機関車乗務員以外の職場への拡大をめざしたが、組合役員選挙において派閥活動が顕在化した。当初の主流派は同志会(後に労運研)と呼ばれ、秋田、仙台、千葉、金沢、広島、四国、門司地本がその基盤だった。同志会は昔ながらの機関士気質を保持し、穏健な路線を進めようとした。この派閥の代表的人物は仙台地本(地方本部)出身の目黒今朝次郎委員長であった。 それに対して反主流として政策研究会(政研派)と呼ばれる派閥が結成された。政研派の基盤は釧路、旭川、青函、盛岡、高崎、東京、名古屋、大阪、岡山、新幹線地本であった。この派閥を代表する人物は大阪地本出身の林大鳳委員長であった。 当初は人脈、地縁上の対立であったが、次第に政策上の違いが出てきた。特に政研派は左派としての傾向を顕にし始めた。新たに結成された青年部が政研派の強い影響力を受けるようになり、次第に反主流派だった政研派が全国に影響力を及ぼすようになった。初代青年部長に就任したのが東京地本出身の松崎明であり、彼は革マル派の最高幹部だった。松崎は全国の青年部組織を完全に把握し(中核派の影響下にあった千葉地本は例外)、彼の後任の青年部長を輩出した青函、釧路、旭川地本にまず強い支持勢力を得た。同時に革マル派に属さない政研派の幹部とも関係を維持し、彼らを役職に就けることによって政研派内の支持を広げていった。 政研派の勢力伸張は松崎と青年部の力だけではなく、国鉄本社運転局幹部との密接な関係によって助けられていた。1968年(昭和43年)10月1日のいわゆるヨンサントオダイヤ改正や昭和47年ダイヤ改正等において、特急車両が政研派の強い運転所に集中的に新製配置されている。特急列車の運転業務に関しても、北海道等では政研派の強い車両基地の乗務員が中心を担った。北海道地区ではキハ80系気動車が政研派の強い青函局の函館運転所に優先的に配置された。L特急「いしかり」を運転するため485系電車が全国鉄動力車労働組合(全動労)の運転士もいた札幌運転所に配置されたが、L特急「いしかり」運転業務の大半は政研派の強い旭川機関区の運転士が担当した。東北地区で485系電車や583系寝台電車が同志会の強い仙台運転所ではなく、政研派の強い盛岡局の青森運転所に優先的に新製投入された。青森運転所に集中配置された485系電車は大阪から青森まで広域にわたる複雑な運用をおこなった。上野から仙台までの特急「ひばり」にまで青森運転所の車両が投入されるほどであった。労使関係を重視して運転管理部門が特定の現業機関に車両を集中配置する方策は、JR東日本においても踏襲されている。 革マル派と関係が深かった政研派が動労の主導権を握ると、政治セクト・政党支持をめぐって内部対立が起こり、1974年(昭和49年)には日本共産党系の全国鉄動力車労働組合連合会(全動労)が札幌地本を中心として結成された。全国鉄動力車労働組合連合会(全動労)結成において、北海道の室蘭本線の追分機関区で激しい組織対立が起きた。1979年(昭和54年)には三里塚闘争をめぐる対立から中核派系の国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)が、1984年(昭和59年)に国鉄分割民営化を巡って、全東北鉄道産業労働組合(現在の鉄道産業労働組合[鉄産労])がそれぞれ分裂している。
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