米軍によるコマンチ族虐殺
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「レッド川北支流の戦い」の記事における「米軍によるコマンチ族虐殺」の解説
マッケンジーは1872年7月早くにコンチョ砦を出て、その作戦を始めた。リャノ・エスタカードの縁にあるダック・クリーク沿いに補給基地となる砦を再構築し、そこで指揮系統を確立した。そこからは、幾つかの斥候隊を派遣し、そのうちの1つが牛の大きな群れの蹄跡で踏み均された道が西に伸びているのを発見した。この発見がマッケンジーの注意を引き、7月28日に272名の騎兵、12名の士官および20名のトンカワ族斥候を加えた部隊でコマンチェリア心臓部に進軍した。8月7日、この分遣隊はニューメキシコのサムナー砦で補給し休息を取った。続いて北のバスコム砦に進軍して8月16日に到着した。 マッケンジーに同行したオルティスがパロデュロ・キャニオンを回って部隊を東に誘導した。マッケンジーは部隊を小さく分けてインディアンたちの野営地の場所を探らせたがうまくいかなかった。彼らは8月31日にっ供給の砦に戻った。この遠征隊は5週間で1,100km近くを動き周り、ステイクト平原を抜ける新しい道2本を発見した。これらの道はカンザス州に牛を追って行くために使われていた「グッドナイト・ラビング道」よりも短く、水源へのアクセスも良好と報告された。 マッケンジーは兵士達を9月21日まで休ませ、その後レッド川の北支流でコマンチ族の野営地として残る最後の可能性を求めて部隊を北に動かした。9月28日、ベーム大尉の斥候隊が大規模なコツォテカ・バンドの集落を発見した。騎兵隊は集落から800mまで接近した所でインディアンに発見された。白人たちはインディアンの生活の場であるティーピーの野営集落に突撃して、30分間の戦闘でこれを制圧した。マッケンジー隊は3名が戦死し、3名が負傷した。コマンチ族は戦死したカイウォチェ酋長とその妻を含み、50名かそれ以上が死んだものと推計された。モウウェイ(シェイキングハンド)は逃亡した。 米軍は無抵抗のコマンチ族の集落を虐殺制圧し、捕虜になっていたクリントン・スミスは後にマッケンジーとその軍隊を虐殺行為で告発した。マッケンジーの公式報告書では23名のコマンチ族が殺されたとしていたが、もっと多かった可能性がある。部族に対するこの虐殺に持ち堪えたコマンチ族の戦士達は、何人かの同胞の死体を深さ3mの池に投げ入れ、トンカワ族に喰われないようにしたとされる。トンカワ族は人肉食を行うと言われていた。 この虐殺を正当化するために、米軍は、このコマンチ族バンドが白人入植地を襲ったとする、「半端ではない証拠」を虐殺破壊したティーピーの残骸から発見したと主張した。例えば、その前の春にハワーズウェルズで虐殺された幌馬車隊の生存者がそのロバ43頭を識別した。 しかし、平原インディアンにとって馬や牛、ロバを盗むことは名誉あるスポーツであり、この家畜がこの集落にあったからといって、彼らがこれを幌馬車隊から奪ったものとの証明にはならない。 破壊したコマンチ族の集落から、およそ3,000頭の馬やロバが騎兵によって集められた。インディアンのティーピー、肉の貯蔵品、装備およびいくつかのローブを除く衣類が燃やされた。大半が女性と子供のコマンチ族130人が捕虜にされたが、そのうち6人は重傷を負っており、長い距離を移動できなかった。 日没後、マッケンジー隊は焼き払った集落から数マイル離れた丘に移動して宿営した。捕獲したポニーの群れが騎兵隊の馬に突進することを恐れたマッケンジーはそれらを囲いに入れさせた。しかしその夜と次の夜に、コマンチ族は自分達の馬に、トンカワ族斥候の馬を加えて取り戻すことに成功した。 コマンチ族は大平原でも1、2を争う馬盗人だった。馬を盗むことは大変な栄誉として、平原のインディアンを熱中させた。 コマンチ族の捕虜は見張りを付けられ、部隊が補給部隊と合流すると、ダック・クリーク沿いの主要補給基地に向かって南に戻り、そこからインディアン達はコンチョ砦に送られて冬の間、囚人として留め置かれた。マッケンジーは指定保留地から出ているインディアンを保留地に戻し、さらに捕虜になっている白人を解放させるための取引材料としてこの捕虜を使った。
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