米軍による使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:39 UTC 版)
1945年6月10日、沖縄戦で南下する米軍は糸満まで到達するが、南部の激戦地から負傷した兵士を退避させる際の水上経路の確保は、沖のサンゴ礁と日本軍の攻撃のために不可能であった。そのため負傷兵を L-5 連絡機を使って退避させることが開始された。連絡機は糸満の北のコンクリートの道路を利用した与根の小飛行場 (cub strip) に着陸し、そこから患者を北谷の野戦病院に運ぶというものだった。 沖縄戦終結の後、1945年12月の空中写真では滑走路が西側に作り直されているように見えるが、米軍がこの飛行場の継続使用の状態は資料からは確認できなかった。
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