筒井城争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:42 UTC 版)
永禄9年(1566年)になると、順慶は松永軍に対する反撃を開始する。順慶は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図する。4月11日から21日にかけて両軍の間で戦闘が行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。順慶と三人衆は筒井城へ迫った。対して5月19日久秀は大和を通過し河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀との間で戦闘が起こった。順慶はこの間に筒井城の奪還を計画し筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどした。 久秀は筒井城の救援には向かえず(『多聞院日記』『細川両家記』)、友能登屋、臙脂屋(べにや)に斡旋させて和睦を結び、5月30日に姿を消した。周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた順慶は本格的に城の奪還に着手、6月8日、ついに城の奪還を果たした。順慶が筒井城を奪還できた背景には、阿波三好家の重臣・篠原長房の進軍によって久秀の足場が揺らぎ、筒井城に軍勢を差し向けられる余裕がなかったことが指摘されている。 筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣した。この時、宗慶大僧都を戒師として得度し藤政から陽舜房順慶と改名した(正式に順慶を名乗るのはこの時から)。翌永禄10年(1567年)には再び三人衆や篠原長房と結んで奈良の大仏殿を占拠し要塞化して、多聞城の久秀と対峙した。10月10日久秀軍が東大寺に討ち入り決戦し大仏殿が久秀軍の兵火の残り火の失火で焼け落ちるが久秀側が勝つこととなる(東大寺大仏殿の戦い)。 この頃、織田信長の台頭がみられ、永禄11年(1568年)には足利義昭を奉じて上洛、三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛できないまま急死し、義昭が15代将軍に擁立され、畿内は信長に平定された。松永久秀は永禄9年(1566年)には織田信長・足利義昭と誼を通じていたが、対する順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞した。劣勢の順慶を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶から離反し七條を焼き討ちしている。 そして、松永久秀は幕府の直臣(信長の家臣ではなく、義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた(『足利季世記』)。久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫り、順慶は叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。10月10日には、信長の応援軍の佐久間信盛、細川藤孝の2万が来軍し、両軍で大和を制圧し始める。福住城にいた順慶だが、元亀元年(1570年)に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とし、さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合うための準備をしていた。一方、久秀は同年12月には三好三人衆や阿波三好家と和睦を成立させ、順慶と三人衆による共闘体制は瓦解してしまう。 翌元亀2年(1571年)5月になると松永久秀(または久通)は、足利義昭方の畠山秋高や和田惟政と申し合わせ敵対を企てたとして自らの指揮下にあった安見右近を自害させ、その居城・交野城を攻めている。これに呼応して三人衆も畠山秋高の守る高屋城を攻め、翌月には三好義継もそこに加わった。さらに7月には久秀は義継や三好長逸とともに和田惟政の居城・高槻城を攻めた。これに対し足利義昭は筒井順慶に接近し、同年6月、九条家の娘を養女として順慶に嫁がせている。順慶は井戸良弘に命令して辰市城築城に着手、7月3日に完成した同城は松永攻略の橋頭堡となった。城の着工が迅速に行われた背景には、順慶を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる。勢いに乗った松永久秀・久通父子、三好義継らの連合軍は、8月4日には辰市城に迫り大規模な合戦に及んだ。しかし順慶は、これを迎え討ち、松永軍に被害を与え、久秀の甥や重臣の竹内秀勝らを打ち取り首500を挙げた。敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。筒井城の奪還によって、信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀は劣勢に立たされることとなった。
※この「筒井城争奪戦」の解説は、「筒井順慶」の解説の一部です。
「筒井城争奪戦」を含む「筒井順慶」の記事については、「筒井順慶」の概要を参照ください。
- 筒井城争奪戦のページへのリンク