第7の哨戒 1943年3月 - 4月・喪失
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「ピカーレル (SS-177)」の記事における「第7の哨戒 1943年3月 - 4月・喪失」の解説
3月18日、ピカーレルは7回目の哨戒で日本近海に向かった。3月22日にミッドウェー島で燃料を補給し、哨戒海域である本州北東部に向かったもののその後の消息は不明となり、5月上旬まで帰投を待ったがついに帰ってこず、5月12日に喪失が宣告された。ピカーレルは中部太平洋で失われた最初の潜水艦となった。ピカーレルは1943年8月19日に除籍された。 4月3日0時過ぎ、北緯40度03分 東経141度58分 / 北緯40.050度 東経141.967度 / 40.050; 141.967の野田湾沖で船団護衛中の第13号駆潜艇が撃沈された。アメリカ側ではこれをピカーレルの戦果としている。同日夕刻17時過ぎのこと、大湊航空隊の水上偵察機が白糠灯台沖で潜水艦のものと思われる油泡を発見し、17時12分に対潜爆弾2発を投下した。偵察機によって付近を航行中の第2403船団を護衛中の敷設艇白神が誘導され、白神は爆雷18発を2度にわたって投下。幅30メートル、長さ2キロにわたって重油が噴出してきた。さらに特設駆潜艇文山丸(日本海洋漁業、97トン)が加わって3発の爆雷を投下し、白神も再度5発の爆雷を投下した。攻撃後、探知してみたが海中からの反響はなかった。少なくとも、日本側からしてみれば目標が撃沈された信じるに十分の状況であり、翌4月4日8時に対潜警報は解除された。 この期間中、同海域ではいくつかの対潜水艦戦闘が行われ、また同期間に三陸方面で作戦活動にあった潜水艦はピカーレルのみであった。水上偵察機および白神と文山丸による対潜攻撃はピカーレルの最期に関する有力な情報の一つであるが、確定情報とは断言できない。アメリカ側の記録では4月7日に三陸沖で雷撃により沈没した福栄丸(栗林商船、1,113トン)をピカーレルの戦果にしているからであり、4月3日にピカーレルが撃沈されたとなると、4月7日に福栄丸を撃沈した潜水艦はピカーレルではない別の艦の戦果ということになり、矛盾が生じることとなる。いずれにせよ、この期間およびそれ以降のいずれかの戦闘でピカーレルは撃沈されたものと考えられる。なお、福栄丸の沈没地点は三陸沖となっているが、4月3日のピカーレルをめぐる戦闘から4月12日のフライングフィッシュ (USS Flying Fish, SS-229) による輸送船第十二札幌丸(犬上商店、2,862トン)撃沈まで、三陸方面の戦闘において大きな出来事は記録されていない。 ピカーレルは第二次世界大戦中の戦功で3個の従軍星章を受章した。
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