第3期カルテット時代
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第2期カルテット解散後、完全ではないものの、サックスの演奏ができるまでには体調は回復し、36歳の時の「森と湖のジャズフェスティヴァル」をきっかけとして、矢代は再びプレイヤーとしてステージに立つようになった。が、固定したメンバーによる自らのバンドを組むことはなく、その時々の流動的なメンバーによって演奏活動を続けるようになった。また、この頃、CM関係の女性ディレクター・高野にストーカー被害を受けるという事件が起こった。 39歳の時、その2年前に主演ミュージカルの音楽監督を担当した縁で知り合った俳優・竜崎晶の紹介で、名探偵・伊集院大介と出会った。この頃、矢代はある脅迫事件に悩まされており、その解決を伊集院大介に依頼したものであった。この時期、脅迫事件のみならず、それに付随して起こったマネージャー北原の事故や、ローディの少年の殺害事件にも矢代は見舞われたが、それらはすべて伊集院の活躍により解決へと導かれた。また、この事件をきっかけとして、矢代は長きにわたった「ワナビー」の封印を解くに到った。(『身も心も』) 40歳の時に出した12枚目のアルバム『オリエンタル』が芸術選奨を受賞し、続いて発表されたアルバム『ワナビー・アゲイン』とそのタイトル曲がジャンルを超えた大ヒットとなった。その翌年にはアルバム『火の鳥』を発表、チョコレートのCMに起用され、そのCM曲「スイート・セプテンバー」がヒット、全国ツアーも成功させた。その翌年、金井恭平の代役として行った小さなセッションで、ピアニスト・森晃市、ドラマー・勝又英二という、まだ若い2人のミュージシャンと出会った。2人との激しくも複雑な交流を重ねるうちに、やがて矢代は、結城の死によって自らの音楽から失われていたものを、勝又のドラムの中に見出した。同時に、森の中にも、未熟ながらも非凡な才能を見出した。(『YOU DON'T KNOW WHAT LOVE IS』) 42歳の時、竜崎晶主演のミュージカル『ヴァニシング・ローズ』で音楽監督と演奏を担当することになった矢代は、これをきっかけとして、サックス・矢代俊一、ピアノ・森晃市、ベース・小田島ヒロム、ドラム・勝又英二というメンバーで第3期矢代俊一カルテットを発足させる決意をする。だが、当初から小田島の力量や音楽に対する姿勢の違いに他のメンバーが不満を感じていたことや、ミュージカルに出演していた俳優・早瀬充とのトラブルに矢代が巻き込まれて怪我を負ったこともあり、大々的な活動は控えるかたちとなった。 小田島に対するメンバーの不満はまもなく表面化し、ライブハウス「エデン」でのライブの直前に勝又と衝突した小田島が演奏を放棄するという事件が起こった。やむなくベースなしでのリハーサルを開始した矢代だったが、この時、密かにライブハウスを訪れていたサミー井上が飛び入りで参加し、小田島の代役を務めた。ライブは大成功に終わり、これによりサミー井上がカルテットに復帰することになり、第3期矢代俊一カルテット(サックス・矢代俊一、ピアノ・森晃市、ベース・サミー井上、ドラム・勝又英二)が正式に発足した。(『朝日のように爽やかに』) 第3期カルテットは極めて順調なスタートを切り、矢代が初めてボーカルを取ったシングル「Love in Coward/ロンリーピアニスト」がヒットするなど、一般ファン、評論家の双方から高い評価を得た。だが、その一方で矢代は、早瀬充による脅迫に悩まされていた。事件を公にしたり、警察沙汰にすることを望まない矢代の意向もあり、なかなか事件解決の糸口は見いだせなかったが、最終的には埠頭を舞台とした早瀬との直接対決がきっかけとなり、滝川の舎弟であった黒田の介入もあって、事件はようやく解決を見た。(『CRAZY FOR YOU』) その後も、矢代の精力的な音楽活動は継続されており、ジャズのカバー・アルバム『ブルー・スカイズ』がオリコン1位になるなど、相変わらず高い人気を誇っている。
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