第1期: コンゴ動乱
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フルシチョフがケネディに宛てた書簡の中で、タントについて好意的な言及を何度かしていたことで、タントの事務総長再任は確実なものとなった。1962年11月、国連総会は満場一致で、1966年11月3日までの任期でタントを事務総長代理から事務総長に昇格させることを決議した。個人的な理由から、タントは最初の就任から5年で任期を終えることを望んでおり、就任から最初の5年間を1期とみなすことになった。 タントは、明白な平和主義者で敬虔な仏教徒であったが、必要なときには武力行使を躊躇しなかった。1962年のコンゴ動乱において、モイーズ・チョンベ率いるカタンガ分離派は国連コンゴ活動(ONUC)を繰り返し攻撃した。1962年12月、ONUCがカタンガで4日間にわたる持続的な攻撃を受けた後、タントは「カタンガ全域でのONUCの完全な移動の自由を得るため」の「グランドスラム作戦(英語版)」を命じた。この作戦により、分離派の反乱は完全に終息した。1963年1月までには、分離派の首都エリザベートヴィルは完全に国連の管理下に置かれていた。タントはコロンビア大学での演説で、1964年半ばに国連コンゴ活動が完了するとの期待を表明した。 キューバ危機の鎮静化など平和維持活動に対する貢献により、ノルウェーの国連大使は1965年のノーベル平和賞受賞をタントに伝えた。タントは、「事務総長が平和のために活動しているときは、ただ自分の仕事をしているだけではないですか?」と謙虚に答えた。しかし、ノルウェー・ノーベル委員会のグンナー・ジャーン(英語版)委員長がタントへの授与に強く反対し、土壇場でユニセフに授与することが決定された。他の委員は皆、タントに賞を授与することを望んでいた。翌年・翌々年もジャーンの反対によりタントへの平和賞授与が見送られた。1950年にノーベル平和賞を受賞した、タントの部下にあたる事務次官のラルフ・バンチは、ジャーンの決定を「タントに対する重大な不公平」と呼び、憤慨した。 1963年12月24日、キプロスで共同体間の衝突が勃発した。トルコ系キプロス人は飛び地に撤退し、中央政府を完全にギリシャ系キプロス人の支配下に置いた。イギリスの指揮の下に設立された平和維持軍は戦闘に終止符を打つことができず、1964年1月にロンドンで開催されたキプロスに関する会議も不一致に終わった。1964年3月4日、敵対行為が拡大する恐れがある中、安全保障理事会は全会一致で、戦闘の再発防止と秩序の回復を目的とした3か月の時限的な国際連合キプロス平和維持軍(UNFICYP)の設立を承認した。安保理はさらに、キプロス問題の平和的解決を求める調停人を任命するよう事務総長に要請した。タントはガロ・プラザ(英語版)を調停人に任命したが、1965年3月にトルコにより却下されたため、プラザは辞任し、調停人の機能は失効した。 1964年4月、タントは自らを常設オブザーバーに指定した聖座の指名を受け入れた。この決定には総会や安保理は関与していない。
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