第1期: キューバ危機
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「ウ・タント」の記事における「第1期: キューバ危機」の解説
核保有国が衝突の危機に瀕していると思われた決定的瞬間において、事務総長の介入により、キューバに向かったソ連船を回避させ、わが国の海軍に迎撃させることにつながったのである。これがキューバ危機の平和的解決に欠かせない第一歩となった。 ――アドレー・スティーブンソン、1963年3月13日、第88回議会上院外交委員会において 事務総長就任から1年もしない内に、世界が核戦争に最も近づいた瞬間であるキューバ危機を打開するという重大な課題に直面した。公表2日前の1962年10月20日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、U-2偵察機から撮影したキューバに設置されたソ連製ミサイルの写真をタントに見せた。大統領はその後、キューバに向かう全てのソ連艦船を検査して攻撃用兵器を撤去させるよう命じた。その間にも、ソ連の艦船が設定された検査海域に接近していた。タントは、衝突を避けるため、ソ連にミサイルを撤退させることと引き換えに、アメリカが非侵攻保証を行うことを提案した。ソ連首相のニキータ・フルシチョフはこの提案を歓迎し、これが以降の交渉の基礎となった。フルシチョフはさらに、交渉中はミサイルの輸送を停止することで合意した。しかし、1962年10月27日にキューバ上空でU-2偵察機が撃墜され、危機が進行した。ケネディは統合参謀本部と国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)から侵攻に対する激しい圧力を受けていた。ケネディはタントが調停者の役割を果たしてくれることを期待し、統合参謀本部とエクスコムに対して、「一方、我々にはタントがいる。我々は、船を沈めたくはない。...その最中に、ロシアが出てこないようにタントが手配しているはずだ」と答えた。 交渉は続いた。アメリカはトルコに配備したミサイルの撤去に合意し、キューバからのソ連製ミサイルの撤去と引き換えに、キューバへの侵攻は絶対にしないことを保証した。タントはキューバに飛び、国連のミサイル査察を許可することと、墜落したU-2のパイロットの遺体の返還についてフィデル・カストロと話し合った。カストロは、自分の知らないところでソ連がミサイル撤去に合意したことに激怒し、国連の査察を断固拒否したが、パイロットの遺体の返還は認めた。検査はアメリカの偵察機と軍艦によって海上で行われた。危機は解決され、超大国同士の戦争は回避された。
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