第1期 ビー・バップ・デラックス
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EMIが望んでいたのはビルとのソロとしての単独契約だった。しかしビルはソロよりもバンドでの活動を計画しており、ビルと少年時代からの友人イアン・パーキン(G)を中心に、ロブ・ブライアン(B)、ニコラス・チャタートン・デュー(ニック・デューと略される場合も多い)(D)、リチャード・ブラウン(K)ら、ジェントル・レボリューションなどからの旧知のメンバー主体のラインナップでビー・バップ・デラックスを結成していた。 ビー・バップ・デラックスは1972年9月に地元ヨークシャーのキャンバーランドホテルで初ライブを行う。ビルはバンドとしてのメジャー契約を目指し、一旦契約話を保留していたEMIに、"ジェットシルバー・アンド・ザ・ドール・オブ・ビーナス"と"ライダーズ・オブ・マイ・ラブ"のデモテープを送った。 1973年4月、スマイルよりシングル盤「ティーンエイジ・アークエンジェル/ジェット・アット・ドーン」をリリースした。このシングルもジョン・ピールによってオンエアされ、ライブ活動と相まってビー・バップ・デラックスの評判は上昇し、他のレコード会社数社も獲得に動き始める。これを受けてEMIは同年8月、ロンドンのマンチェスター・スクエアでオーディションを行った。また、BBCラジオの「トップ・ギア・ショー」のためのスタジオ・ライブ録音も行った[:en]。1974年2月22日、マーキーでのライブの後、EMIと楽屋で契約を結んだ。 こうしてビー・バップ・デラックスは、1974年6月、ファースト・アルバム『美しき生贄』をリリースする。このアルバムによってビー・バップ・デラックスはポスト・グラム的評価を受けるが、ビルは「デヴィッド・ボウイらと比較される事を快く思わなかった」と後に述べている。その後スティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベルの前座としてツアーを行うが、EMIが他のメンバーの力量に不満を示し、ビルも同様に考えていたためバンドを解体する事になる。
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