第1回目の探検
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1794年9月26日にムンゴ・パークは、当時、ニジェール川への道筋を発見するため1790年に送られ、サハラで死亡した少佐ダニエル・ホートンの後継者を探していたアフリカ協会の任務を申し出た。サー・ジョゼフ・バンクスの後援のもとでパークが選出される。 1795年5月22日、パークはミツロウや象牙のためガンビアを目指して横帆の2本マストの貿易船エンデバー号に乗り込み、イングランドのポーツマスを出帆した。1795年6月21日にガンビア川に達し、ピサニアという名称の英国貿易局を目指して200マイル(300キロ)河川を上っていった。12月2日、彼は2人の地元ガイドを伴って、未知なる奥地へと向かい始めた。彼は上部セネガル集水域とカールタの半砂漠地帯を横断するルートを選択した。旅は困難に満ち、彼はルダマルでムーア人の族長によって4ヶ月間投獄された。1796年7月1日、彼は1頭の馬とポケットにコンパスを忍ばせた以外一人でなにも持たず脱出する、そして、21日、セグーで念願だったニジェール川に達した初めてのヨーロッパ人となった。彼はさらにシラへと川の下流80マイル(130キロ)を下ったが、彼はこれ以上遠くに行くには力及ばずであったことから引き返さざるを得なかった。 帰路は7月29日に開始され、彼はもときた道筋をとらず南の方向へとルートを取る、ニジェール川沿いを進みながらバマコまで約300マイル(約500キロ)の道のりをたどった。彼はカマーリアで病気になって倒れたが、家屋に7ヶ月間あまり滞在させてくれた親切な男性のおかげで命は救われた。最終的に、彼は1797年6月10日にかつてきたピサニアに帰還を果たし、12月22日にアンティグア経由でスコットランドに帰国した。彼は死んでいると思われていたが、帰国そしてニジェール川発見のニュースに世間は熱烈に沸いた。彼の探検の軌跡はアフリカ協会に向けてブライアン・エドワーズがパークから話を聞いたうえで報告書が作成される、そして彼自身の詳細な体験談は1799年に公表した(『Travels in the Interior Districts of Africa』)。 著作『Travels in the Interior Districts of Africa』は、彼が観察したこと、生還したことや、出会った人々について詳細に書かれていたため成功した、彼のありのままな描写はのちの旅行作家たちの基準となっている。これはヨーロッパ人にアフリカへ強く行きたいとそれとなく感づかせた。パークは広大な未踏の大陸を紹介をした。彼の死が明るみに出た後、アフリカにおける政治的関心は高まり始めた。彼はアフリカを探検することができることを証明した。おそらく、パークの旅行記の中で最も永続的効果を持っている、もっともそれは欧州の各国政府へ影響をもたらした。
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