秦末の大乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:23 UTC 版)
同年9月、陳勝の配下である周文の軍が戯において陣を布いた。兵は数十万いた。胡亥はとても驚いて、群臣に「どうすればいいのか?」とはかった。少府の章邯が進言した。「盗賊はすでに接近しており、今、近くの県から兵を徴発しても、間に合いません。驪山には多くの囚人がいます。どうか、彼らの罪を許して、武器を与えて盗賊を攻撃させてください」。胡亥は、天下に大赦を行い、章邯を将に任じて、周文を攻撃させた。章邯は周文を打ち破り、周文は敗走した。 二世二年(紀元前208年)11月、章邯は重ねて周文を攻撃し、周文は死亡する。 胡亥は増援として、長史の司馬欣と董翳を章邯の補佐として派遣して、陳勝の軍勢を攻撃させる。 章邯は、陳勝配下の田臧と李帰を打ち破り、李由の守る滎陽を包囲から解放する。さらに、章邯は陳にて、陳勝を打ち破った。 この頃、秦の朝廷では、三川郡守でありながら、群盗(周文?)が通過するのを止めることができなかった李由に対する糾問の使者が咸陽から相次いで発せられていた。また、李由の父である李斯も三公でありながら、盗賊に大きな勢力を伸ばさせたことを責められていた。 李斯はしばしば折を見て、胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に責めあげて問うた。「私には私の考えがある。韓非子も『(聖人であり、天子となった)堯が天下を有した時、宮殿は旅人が泊まる宿より質素であり、衣は鹿の皮の衣や葛でできたもの、食事の内容も門番にも劣るもので、土器で食事をした。(同じく聖人であり、天子となった)禹もまたは治水のため、捕虜の労役よりも激しい労働を行い、家の外で死に、会稽山で葬られた』と言っている。それならば、天下を保つものが尊ぶべきは、体を苦しめ心を労し、衣食住を質素にして、捕虜と同様の労役をすることなのか。これは、愚か者が務めることで、賢人が務めることではない。賢人が天下を保てるのは、天下を治めて、己の望みにかなうようにしたからであり、だからこそ、天下を保つものは貴いのである。賢人は必ず天下を安んじ万民を治めることができるのに、わが身を利すことさえできずに、天下を治めることができようか。だから、私は心のままに望みを広げて、長く天下を統治して、災いが無いことを願っている。このことをなすのは、どうすればいいのか」。 李斯は恐れおののき、己と息子(李由)の立場が悪くなっていることもあって、地位の保全のために、胡亥におもねって上書して答えた。「賢君とは、督責の術(臣下を監督し、刑罰によって臣下を責める術策)を行うものです。王のみが天下を制して、制されることがなくなり、楽しみを極めることができるのです。尭や禹は間違っています。賢君が、独断専行して行い、督責の術に通じ、厳しい刑罰を確実なものにすれば、天下の人々は罪を犯しません。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけてください。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。督責の術が確実なものになれば、国家は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになります。得られないものなどありません。群臣や民は過ちを犯すまいとして暇をなく、謀反など起こすことはありません。これによって、帝道は備わって、臣下を統御する術は完全なものとなるのです」。胡亥は、この上書を読んで喜んだ。 胡亥は臣下を監督し、刑罰を行うことがますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また、刑に処されたものが、道行く人の半ばにまで達し、処刑されたものは日々、市に積み上げられた。死罪に処することが多いものが、忠臣とされた。胡亥は言った。「このようであってこそ、よく督責していると言えるのだ」。 同年12月、敗走した陳勝は部下に裏切られ、城父にて殺された。 同年端月(1月)、章邯は魏の魏咎が都としていた臨済を攻める。 同年6月、章邯は魏の救援に来た斉王の田儋を戦死させる。魏咎は自殺して、臨済は落城した。
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