禁酒法の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:40 UTC 版)
「アメリカ合衆国における禁酒法」の記事における「禁酒法の発達」の解説
1840年代に始まった禁酒法の運動は、敬虔なキリスト教の宗派、特にメソジストがその先鋒を務めた。禁酒運動は、1800年代後半には禁酒からアルコール摂取に関連した全ての振る舞いにまで拡大され、マーク・A・マシューズのような伝道師が、酒を出しているバーと売春を関連づけるようになっていく。 禁酒運動は、メイン州において若干の成功を収め、1851年に法律が可決された。しかし、こうした運動はすぐに勢いを失って、南北戦争(1861年-1865年)の間は完全におざなりにされた。 禁酒運動は、1869年創立の禁酒党と1873年創立のキリスト教婦人禁酒連盟によって復活したが、後者はその名前とは裏腹に、禁酒法の促進にあまり貢献しなかった。これは、子供達に禁酒が浸透することで、飲酒に対する「ドライ」(冷ややか)な感情を醸成するだろうという考えから、禁酒という目的達成の手段の一つとして、教育を重視したためである。 1881年に、州憲法でアルコール飲料を禁止した最初の州であるカンザス州では、キャリー・ネイション達がバーに乱入し、客を叱って、酒のボトルを手斧でたたき割るという儀式を実行したことに、賛否両論となった。さらにネイションは婦人を集めて「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を組織し、他の活動家もバーに入って、歌い、祈り、マスターにアルコールを販売することを停止するよう訴えた。こうして、南部の州を中心とした各州および個々の郡で、禁酒法が制定された。 「進歩的な時代」と呼ばれた1890年-1920年には、バーと政治的影響への敵愾心は広く行き渡るようになっていき、運動面では「反酒場連盟(Anti-Saloon League)」が禁酒法推進にもっとも影響力を持つ団体として禁酒党とキリスト教婦人禁酒同盟に取って代わっていった。 禁酒法に与する勢力は1840年代から1930年代への州における地方政治の重要な勢力であり、民俗宗教的な性格を持っていたことが多数の歴史研究によって示されている。禁酒法は「ドライ」 ― 主に敬虔なプロテスタントの宗派、特にメソジスト、北部バプテスト大会、南部バプテスト連盟、長老派教会、ディサイプル教会、クエーカーとスカンジナビアのルーテル教徒 ― によって要求された。彼らは政治的に不正で、個人の罪として飲んでいるものとしてバーを特定した。一方で「ウェット」 ― 政府が道徳を定めなければならないという考えを非難した主に一部のプロテスタント(米国聖公会、ドイツのルーテル教会)とローマのカトリック教会 ― は「ドライ」に対抗した。ニューヨーク市の「ウェット」の拠点でも、禁酒法が労働者、特にアフリカ系アメリカ人のためになると考えていたノルウェーの教会グループとアフリカ系アメリカ人の労働活動家によって禁酒法運動は活発になった。茶商と炭酸飲料メーカーも、アルコールの禁止令が製品の売上高を増加させると考え禁酒法に賛同した。
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