禁酒法と社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:40 UTC 版)
「アメリカ合衆国における禁酒法」の記事における「禁酒法と社会」の解説
1920年まではマフィアの主な活動は、賭博と窃盗に限られていたが、禁酒法時代には、無許可で酒を製造販売することで繁栄した。マフィアの資金源となった酒の闇市は栄えたが、暴力沙汰も頻繁に起こり、売春が跋扈した。強大なギャングは法執行機関を腐敗させ、最終的には恐喝するまでになる。ギャングは酒の密輸で利益を上げ、よりアルコール度数の強い酒の人気が急騰した。 禁酒法を実施するための費用も重大な問題となった。本来アルコールの税金で毎年5億ドルの税収があったが、これが無くなった事で、アメリカ合衆国連邦政府の財源に悪影響を及ぼした。 禁酒法は1933年に廃止されたことで、これら犯罪組織は安価な酒との販売競争に敗れ、多くの州で、闇市でのアルコールの売り上げを失った。 また禁酒法は、アメリカのアルコール醸造業に顕著な影響を及ぼした。禁酒法が廃止された後、かつて存在していた醸造所の半分だけが営業を再開した。禁酒法以後は今日バドワイザーやクアーズなどに見られるような米国で主流となっているアメリカンラガースタイルのビールが導入された。アメリカ各地に存在していたウイスキーの蒸留所も禁酒法時代にその大半が操業停止し(一部は医療用ウイスキーの製造認可を得て細々と活動していた)、そのほとんどが禁酒法廃止後に営業再開できなかった。 それは同時に、アメリカの燃料産業の一角を構成していたアルコール燃料産業の消滅をも意味していた。これによって石油産業が、アメリカのエネルギー事情を完全に掌握する事になり、石油メジャーの政治的経済的影響力は絶対的なものとなったのである(後述のジョン・ロックフェラー2世の手紙の内容と合わせて、禁酒法の真の目的が「石油産業による産業界支配にあったのではないか?」と見なす向きもある)。 またワイン歴史家は、禁酒法がアメリカの未熟なワイン産業を壊滅させたことを書き留めている。生産性の高いワイン品質のブドウの木は、家庭醸造用販売のため、輸送に適した実の皮の厚い低級品質の品種と取り替えられ、禁酒法時代の間に、ワイン醸造者は他国に移住したり廃業してしまったため、ワイン業界の知識の多くも失われた。 禁酒法の終わりに、一部の支持者は率直に禁酒の失敗を認めた。富豪にして実業家のジョン・ロックフェラー2世によって書かれた手紙には、こう書かれている。 禁酒法が提出された時、私はそれが大衆の意見によって、広く支持される日が来ることを望みました。そして、アルコールの凶悪な影響が認められる日が、すぐに来るだろうと思いました。しかし、これが私の望んだ結果ではないと、不本意ながらも信じるに至りました。飲酒はむしろ増加しました。不法酒場がサロンに取って代わりました。犯罪者の巨大な群れが現れました。我々の最高の市民の多くでさえ、禁酒法を公然と無視しました。法律の遵守は大いに軽んじられました。そして犯罪は、かつては決して見えない水準にまで増加しました。 — ジョン・ロックフェラー2世 禁酒法が再び成立するという可能性を減らす方法として、アルコール産業が禁酒法廃止の数十年後に、より強力なアルコール規制を受け入れた、と一部の歴史家は述べている。
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