確立された編年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 16:30 UTC 版)
「古代オリエントの編年」の記事における「確立された編年」の解説
古代オリエント地域について言えば、編年の確立状況は以下のようにまとめることができる。 紀元前3千年紀前半まで:アッカド帝国成立(前24世紀頃)より前の、いわゆるシュメール初期王朝時代の君主たちと王朝の実在についての推定は、大部分が『シュメール王朝表(シュメール王名表)』に基づいている。加えて考古学的な証拠によって証明される王(例えば、エンメバラゲシ王)もいる。『シュメール王朝表』は伝説的な洪水以前の、数万年におよぶ在位期間を持つ王の治世から始まっており、神話と歴史の境界は明確ではない。また、実際には同時代に存在した王朝を縦列に繋いで叙述しているために、そこから正確な年代を割り出すことは極めて困難である。よって、この時代は1世紀単位を超えた分解能で絶対年代を割り当てることは不可能である。 紀元前3千年紀後半から紀元前2千年紀前半まで:前2300年頃のアッカド帝国の始まりと共に、年代学的な記録は一貫性を持つようになっていく。基本的にこの時代の間は、多数残された年名や王碑文によって誰がどの王の地位を継承したのかを良く把握することができ、相対年代を割り出すことができる。この時代の編年の鍵となるのはアンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板(英語版)である。これはハンムラビ王の4代後のバビロニア王であるアンミ・ツァドゥカの時代にオリジナルが記録されたと考えられる複数の楔形文字粘土板文書で、21年間に渡る金星の天文観測記録を残している。これによって絶対年代の同定可能な編年上のポイントが提供されている。金星の軌道は周期的に一致するため、同定され得るポイントは複数ある。これらのうち他地域の編年との矛盾しないポイントは3箇所ある。故に上記の天文学的な計算によるハンムラビ王の統治第1年は次の三つの可能性がある。即ち、前1848年、前1792年、前1736年である。年代の古さに応じてそれぞれ「高年代説」、「中年代説」、そして「低年代説」とされる。 紀元前2千年紀後半:メソポタミアではバビロン第3王朝(カッシート王朝)の成立の頃(前16世紀頃)、東地中海では海の民の登場とそれに続く、ヒッタイト王国の崩壊の頃(前1200年のカタストロフ)の編年上の情報が不足する。アナトリアの歴史学ではしばしばこの時代を「暗黒時代」とも呼ぶ。これらの編年情報の空白のために、前2千年紀の絶対年代を確実に同定することが難しくなっている。しかし、この時代にはエジプトで発見されている外交文書などを通じ、メソポタミアとレヴァントの編年と、より強固な古代エジプトの編年(英語版)との間で同期を取ることができる。 アッシリア帝国以降:前900年頃、記録史料はアッシリア帝国の台頭と共に再び増加し、古代史の中でも記録史料が豊富な時代に入る。アッシリアは長期間にわたる連続した年名の記録(リンム表)を残している。更にアッシリア王アッシュル・ダン3世の統治第10年の日食の記録が残されており、天文学的な計算によってこの日食が紀元前763年6月15日に発生したことが特定されている。これによって現代の暦と接続された信頼できる絶対年代が確立されている。プトレマイオスの王名表やベロッソスの記録、そして旧約聖書のような古典の記録は、年代学的な同期の確立を補助する史料である。
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