癌で入院・手術、短期間で退院
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「逸見政孝」の記事における「癌で入院・手術、短期間で退院」の解説
1979年、2歳年下の実弟・憲治が胃癌の中で最も予後の悪いものであるスキルス胃癌で半年間の闘病の末、1980年3月22日に32歳の若さで他界。このことから逸見は、人一倍癌に対して気をつけ、年一回の検診も欠かさず受診していた。しかし1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴え、番組で共演していた江川卓に紹介された前田外科病院(現:赤坂見附前田病院)に、年に1度の定期健診も兼ねて受診。その際に担当医から、胃癌の診断が下された。突然の癌告知に、逸見夫妻は大きなショックを受けて言葉を失う程だったが、それでも担当医は「あくまでも初期の癌ですから、手術すればすぐに完治しますよ」と笑顔で語っていた。 1週間後の1月25日に入院、前田昭二院長はじめ医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の手術を受けた。本人には胃の3分の2を取り除いたと伝えられたが、晴恵だけには前田院長が「ご主人の病状は、実際は初期の癌ではなかった。ギリギリの所ですべての癌細胞を取り除いたんですが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近いでしょう」と宣告していた。実際、逸見の死後に前田外科病院は、この手術の時点ですでに癌が胃に近接する腹膜にまで転移していたことを公表している。 手術から1ヶ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で早くも仕事復帰。当初逸見は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。退院後も抗癌剤投薬や前田外科病院への検査通院を続け、同年春から『逸見のその時何が!』など新番組も始まったことで、逸見は再び軌道に乗り始めたかに思えた。 1993年8月1日、目黒のカトリック碑文谷教会で催された、設楽りさ子と三浦知良の披露宴で司会を務めた。 だが、同年5月下旬頃になるとメスを入れた手術痕の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは当初「通常、手術後に起こる症状であるから心配ない」と言われたが、その突起物が次第に大きくなり、やがて服を着る時に邪魔になるほどになっていた。逸見のスケジュールの都合ですぐには精密検査を受診せず、夏休み中の同年8月12日にその「突起物を除去する」という名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、もはや手のつけようがない状態だった。然しながら執刀医は、逸見本人には癌の再発を一切告知しなかった。 当時の逸見は、前田外科病院に全幅の信頼を置いており、晴恵や三木プロの三木治社長など、何度も周囲から別の病院での診察を勧められても全く聞き入れず 、加えてこの時期にはレギュラー番組を週5本も抱えており、極めて多忙な日々を送っていた。 再手術にあたり、逸見が前田院長に直接「執刀をしてくれますね?」と尋ねたが、前田院長は笑いながら「丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ」と、思わぬ返答をされ、代わりに副院長が手術する方針であることが告げられた。さらに前田院長から勧められたアメリカでの民間療法が直前で取り止めになったことから、逸見は次第に前田外科への不信感を抱き始め、晴恵や三木社長らの勧告もあって、同年9月3日にようやく東京女子医科大学病院へ『夜も一生けんめい。』(森進一、西郷輝彦のゲスト回2本録り)収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告される。そして、羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からは、触診の際に「何故ここまで放っておいたのですか!?」と非常に厳しい口調で叱責され、厳しい現状を告げられた。そのことを受け止めた逸見は、東京女子医科大学病院での手術を決意した。受診後の収録は予定通り行われ、共演者・スタッフも会見で事実を知ったというほど気丈な態度で仕事に臨んだ。収録を終えると自ら旧宅に向かい、両親に癌再発を報告した。
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