生前の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
カフカの生前の名声はささやかなものではあったが、(主に同業者等の)少数の読者に注目されており、決して無名の作家だった訳ではない。カフカについての公刊された最も早い評は友人マックス・ブロートによるもので、1907年2月にベルリンの雑誌『現代』にて、著作家・編集者フランツ・ブライと同じ傾向を持つ作家としてハインリヒ・マン、フランク・ヴェーデキント、グスタフ・マイリンクと共にカフカの名を挙げた。この時カフカは知人の前で作品を朗読していたのみで、まだ出版物には1作も発表していなかった。 1912年に最初の著作『観察』が出版された時には、ロベルト・ムジールがベルリンの雑誌『ノイエ・ルントシャウ』(新展望)に好意的な書評を載せた。この雑誌の編集に携わっていたムジールはカフカに原稿の依頼を行なったが、カフカは丁度よい長さの作品が用意出来ず断っている。『観察』は6誌以上の文芸誌で好意的な評を受けており、これらは本の売り上げには貢献しなかったものの、批評界から注目されるきっかけを作った。1913年に『火夫』が出版された際には直ちに反応があり、シオニズム系の雑誌『自衛』や『プラハ日報』、ウィーンの『新自由新聞』に書評が掲載された。1915年には『変身』が出版されたが、この年にフォンターネ賞を受賞したカール・シュテルンハイムは、『観察』『火夫』『変身』等の作品を認めて、この賞金をカフカに譲り、彼と個人的な面識を持っていなかったカフカを酷く驚かせた。 1916年11月、カフカはミュンヘンの書店で、未刊行だった「流刑地にて」の朗読会を行なった。朗読会自体は不成功に終わったが、この時ライナー・マリア・リルケが朗読を聞きに訪れており、後にカフカに賛辞を送っている。リルケはカフカに対して持続的な関心を抱いており、1922年にクルト・ヴォルフに宛てた手紙の中では、カフカの書いたもの全てを自分の為に書き留めておいくれる様、頼んでいる。リルケの『オルフォイスのソネット』の中の一篇「裁くものたちよ、誇りを持て」は、「流刑地にて」からの影響の元に書かれたとも言われている。 1920年にはクルト・トゥホルスキーが「ペーター・パンター」の筆名を使い、前年に刊行された『流刑地にて』の書評を『フォルクス・ビューネ』誌に載せて、「ささやかだが一つの傑作」と評した。この書評は後に『プラハ日報』に転載されている。1921年には当時人気のあった朗読家ルートヴィヒ・ハルトが、ゲーテやヘーベル等の古典作家と共にカフカをプログラムに取り入れ、ベルリン公演の際にはトゥホルスキーが評を書いた。この年11月にはブロートによるカフカ論も発表されている。この頃には幾つもの文芸誌からカフカに執筆依頼が来る様になっており、ブロックハウス[要曖昧さ回避]のドイツ文学辞典にもカフカの名が採録されていた。 カフカの死に対して世間のほとんどの人間は無関心だったが、プラハ小劇場で行われた葬儀には500人の参列者が集まった。
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