現実世界での女装
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図5:コミケ男性更衣室登録者数 2008夏、 2009夏。『東方』は2日目。 ブリジットに前後し、一般向けの漫画で女装少年が再び注目されるようになっていた。志村貴子『放浪息子』(2002年)・宮野ともちか『ゆびさきミルクティー』(2003年)・塩野干支郎次『ブロッケンブラッド』(2003年)・畑健二郎『ハヤテのごとく!』(2004年)や、遠藤海成『まりあ†ほりっく』(2006年)などである。 バイセクシュアルである私は、セクシュアルマイノリティに関するホームページを毎日のように読み漁っていた。そんなネットサーフィンを繰り返す中で、ポップにデザインされた一際目立つモカのテキストサイト「Minky House*」に偶然たどり着いた。〔……〕Minky House*の掲示板には、ゲイやレズビアンや女装子など、多種多様な若い世代が集まっていた。 〔……〕数年後、「プロパガンダ」という日本最大級の女装イベントがあることを、インターネット経由で知った。今、女装界隈で最も熱いイベントだという。ホームページのスタッフ欄を見て、私は少なからず驚いた。オーガナイザーは、あのモカではないか。 川本 2014, pp. 15–16 『放浪息子』と『ゆびさきミルクティー』の主人公は、自分の男性ジェンダーに違和感を持っており、「女の子になりたい」と願う少年であった。吉本らは、これらが「かわいくなりたい」「女装したい」と考える三次元の男性に影響を与えたと考察している。またタレントの大島薫のように、二次元の女装少年に憧れる形で女装願望を抱くようになった男性も存在していた。来栖は、子供のころに読んだ『少女少年』(前述)などの影響を受けて女装を始めた者も多かったようだと述べている。2007年、一迅社から初心者向けの女装指南本『オンナノコになりたい!』が発売されると、内容的には目新しいものがなかったにもかかわらず話題を呼んだ。それまで女装文化に興味のなかった層が、女装の情報を求めるようになっていたのである。そこへ『オトコの娘のための変身ガイド』(2008年、遊タイム出版)など、数多くの入門書が続いた。 二次元と三次元のボーダレス化は着々と進行した。2007年、一迅社から『オンナノコになりたい!』という女装指南書が発売され、ベストセラーになる。この本が二次元と三次元の女装を繋ぐターニングポイントとなった。 —川本 2014, p. 142、強調は引用者 来栖・椿は、『東方Project』シリーズ(1996年 - 、上海アリス幻樂団)の影響も大きかったことを指摘している。ニコニコ動画の本格運用が始まり、『東方』はVOCALOID・アイドルマスターと並ぶ「御三家」の一角として、2008年ごろから爆発的なブームとなっていた。『東方』の男性コスプレイヤーも急増したが(図5)、ほとんどの『東方』キャラクターは少女の姿をしていたのである。椿は、『東方』の人気が女装という行為に普遍性を与えたと述べている。 2007年8月、秋葉原に女装メイド喫茶「雲雀亭(ひばりてい)」が開店する。2003年ごろにブレイクしたメイド喫茶のブームに陰りが見え始めていた時期のことで、非常設の企画店舗であったながら、オープン当初から入店3時間以上待ちの状態が続き、最盛期には6時間待ちの行列ができた。これがロイター通信によって報じられ、世界中に日本の女装文化が知られるようになる。 日本における女装文化の歴史は古く、トランスジェンダーなどの女装者ももともと存在していた。彼らマイノリティの側も、女装ビジネスを二分するように動いた。「雲雀亭」の開店と同じ2007年8月、モカというトランス女性により、定期開催の女装イベント「プロパガンダ」が立ち上げられる。第1回の会場は新宿二丁目にある収容人数50人の店であった。mixiコミュニティでの告知から始まった「プロパガンダ」は、回を追うごとに参加人数が膨らんでいき、やがて国内最大規模の女装の祭典へと成長していく。
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