特殊な「身替り」
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人形浄瑠璃や歌舞伎には「身替り」というものがよく出てくるが、この「身替り」についてごく大まかにまとめると、以下のようになる。 主人(主君)とそれに仕える家来(家臣)がいる(主従関係)。 その主人に敵対する者がいて、その敵対する者から主人(または主人の家族)が命を狙われ、絶体絶命となる。 そこでその家来が、主人またはその家族の身替りとするため、自らや自分の妻子などを偽って敵対する者の側に引き渡す。大抵その身替りを引き渡す時には、すでに首を討たれて首だけとなっている。 もっとも身替りの中には『一谷嫩軍記』の熊谷直実のように、主従の関係にはないが自分が仕える主人(源義経)の意向によりわが子を身替りとする例、また『義経千本桜』のいがみの権太のように、親にとって大恩のある人の息子だから、自分の妻子を身替りにするといった例もある。しかしおおむね「身替り」とは、 主従関係、またはそれに準じた関係において行われること というのが普通である。だが『大塔宮曦鎧』の三段目で語られる「身替り」は、これには当てはまらない特殊なものである。 斎藤太郎左衛門は、孫力若の命でもって助けた若宮とは主従の関係にあったわけではない。それどころか後醍醐天皇は鎌倉・六波羅から見れば戦の首謀者であり、若宮はその皇子である。太郎左衛門にとっては自分が仕える六波羅に敵対する人物の身内であって、本来ならその命を助ける義理もいわれもないはずであった。 これについて『難波土産』(元文3年〈1738年〉刊)では、次のように解説している。 「…斎藤は始終武士道を立てぬきたる所あきらか也。我は六波羅の被官ゆへ、我が身においては少しも天皇への荷擔なく、頼員力若は天皇へたのまれし義を立てさせ、始終天皇の御ためにいのちを果たし、しかも力若が最期によって、頼員が無駄死に迄忠死となる。是斎藤が一心より編み立てし武道、尤さも有るべし…」 つまり、力若の親の土岐蔵人頼員は天皇の側に味方する心でありながら、その意を果たせずに自害してしまった。そこでそのせがれの力若にその遺志を遂げさせようと若宮の身替りにしたということである。若宮を助けたことで太郎左衛門は六波羅を裏切ったように見えるが、これはあくまでも天皇の側についた頼員の子力若の身替りによる忠義であり、「我が身においては少しも天皇への荷擔なく」ということになる。自身に武士としての誇りがあるように、武士である婿の頼員にもせめてこうした形で「無駄死に」ではなく、武士としての名誉を守らせたいという心であった。だが結局は祖父が孫を殺したことに、「堪へに堪へし斎藤が泣きかゝっては止めどなく。天に仰ぎ地にまろび涙。千筋の縄簾乱れ。叫びて」歎くのである。 しかし一方、永井右馬頭の心情にも複雑なものがあった。 右馬頭は太郎左衛門と同様、六波羅に仕える武士であり、わが子鶴千代を若宮の身替りに立てようとするのは、普通に考えれば右馬頭はすでに天皇側に心を寄せ、六波羅を裏切るつもりだったように見える。ところが右馬頭は鶴千代を身替りにすると決めた時、花園に次のような話をしている。 (花園)「…人は情といひながら、宮様が相伝の主君でもなし。咎もない我が子を殺さずとも、まちっと思案はあるまいか」 (右馬頭)「この瀬戸際に思案どころか。尤も若宮にさせる由緒はなけれども、我は顔する斎藤めに、人違へさせ不覚を取らせねば、武士と武士との義もなく勇みなし。弓馬の家に生れし身は一旦の誉れより、畢竟の締めくくりに後ろ指さされては、一代の手柄も水の泡…」 右馬頭は「尤も若宮にさせる由緒はなけれども」と言う。つまり本来なら、若宮にはわが子をその身替りとして死なすほどの義理はないというのである。だが太郎左衛門に「不覚を取らせねば、武士と武士との義もなく勇みなし」ともいう。要するに右馬頭は、若宮を含めた天皇側に味方してわが子を身替りにするのではなく、このまま若宮を殺させては武士としての面目にかかわる事があると述べているのである。 右馬頭は範貞の命令により、若宮とその母三位の局の身柄を預かった。今度はこれも範貞の命令で、若宮の身柄を引き渡さなければならない。右馬頭は「役目」として若宮を預かっていただけであり、若宮が殺されるとしてもその引き渡しに否という筋合いは無い。若宮の引き渡しを拒むことは主命にそむく事であり、それこそ「武士と武士との義もなく勇みなし」ということになる。それでもわが子を身替りにしてまで若宮を救おうとしたのはなぜなのか。 そもそも若宮が討たれることになったのは、太郎左衛門が範貞の前で燈籠や浴衣の意匠について悪し様に説明したからであった。だが局を預けていた右馬頭は、この燈籠や浴衣に込められていた意味について知っていたのか、知らなかったのか、いずれにしても身柄を預けておきながら「監督不行届き」で範貞を激怒させた。これは右馬頭の「落ち度」であり、この「落ち度」によって若宮を引き渡さなければならなくなったのである。すると右馬頭は、人から次のようなレッテルを貼られることになる。 「永井右馬頭、あいつは与えられた役目を全うできず、それでその役目も取り上げられる駄目なやつだ」 主命により預かっている者であれば、いずれ引き渡さねばならぬにしても、このようなレッテルを貼られた上で引き渡すことになるのは、武士として大変な不名誉であり侮辱である。右馬頭は、父である帝を偲ぶ若宮の様子に心を痛め、またその所望により自ら踊って見せるなど、若宮に親しみを感じてはいた。しかし本心から六波羅を裏切ろうというつもりはなかったのを、このような辱めを人から受けるくらいなら、その命を救ったほうがよいと判断したのである。そしてこんなことになったのも燈籠や浴衣について悪し様に言った太郎左衛門のせいだ、この上は太郎左衛門も偽首を持ち帰らせる「落ち度」にさせなければ腹がおさまらぬと考えてのことでもあった。 太郎左衛門と永井右馬頭の「身替り」は、いずれも「主従の関係」によらず、「身替り」に至るいきさつも上で述べた普通の「身替り」には当てはまらないものであった。太郎左衛門は心から天皇の側に寝返ったわけではなく、孫の力若を身替りにしたのは婿や娘といった血筋の縁に引かれてのことであり、自分はあくまでも六波羅の武士であるという姿勢は崩せなかった。永井右馬頭も若宮に心を寄せる部分はあったにせよ、まず先に立ったのは武士としての面目であり、それが傷つけられることに堪えられず、六波羅を裏切ってわが子を身替りとし、そのあと自らは切腹しようとしたのである。これらのような主従や敵味方という建前なしに行われる「身替り」は、数ある義太夫浄瑠璃や歌舞伎における「身替り」の中でも珍しい特殊なものである。『難波土産』は本作の三段目について、「近松の形見」すなわち近松の執筆であろうと言い、「さればこそ趣向より文句にすこしの抜け目なく、踊りの中の愁ひなんど、まはらぬ筆には及びもなき事どもなるべし」と評している。
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