片上鉄道について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 23:19 UTC 版)
詳細は「同和鉱業片上鉄道」を参照 大正初期、藤田組が本格的に開発を始めた頃の柵原鉱山の鉱石輸送は、高瀬舟を利用して吉井川を下り、和気駅から山陽本線に積み替えるか、吉井川を河口まで下って児島湾の九蟠港から海上輸送する方法が取られていた。高瀬舟は会社所有のものと個人所有のものがあって、最盛期には100艘以上が利用された。しかし初夏から秋にかけて、吉井川の水は下流部で農業用水として大量に取水されるために水位が低下してしまい。和気の上流約6キロの天瀬付近より下流では、一年のうち約四分の一は高瀬舟での輸送はストップしてしまう状態であった。その上、高瀬舟での輸送は柵原から九蟠港までの往復に平均5日を要し、鉱石を俵に詰める作業が必要で労力もかかり、輸送費が生産費の半分以上を占める状態であった。 柵原鉱山の開発が進むにつれて、鉱石の輸送問題の解決は重要性を増した。そのためまず1919年7月には小坂鉄道の古くなったレールを利用した人車鉄道の建設が計画され、1920年9月には和気から天瀬間で完成して、吉井川の水位が低下して川舟での鉱石輸送が出来ない時期に輸送を担うことになった。しかしこれでは到底増大する輸送には対応できるとは考えられず、新たな対策が望まれるようになった。 そのような頃、地元の有力者によって片上港から和気を通り三石までの軽便鉄道敷設の動きが起こった。藤田組は鉄道敷設が鉱石輸送問題の解決に役立つと考えてこの計画に参画し、1919年11月27日、片上鉄道株式会社が設立された。1921年に建設を開始し、1923年1月に片上-和気間、そして8月には和気-矢田間が開通して、1923年5月に柵原鉱山から矢田まで開通していた鉱石運搬用の索道とともに鉱石運搬に利用されるようになって、柵原鉱山からの鉱石輸送力は増強された。 その後も硫酸需要の増大と有望鉱脈の相次ぐ発見、開発によって柵原鉱山の生産量は増え続け、1931年6月には矢田-柵原間の鉄道が完成して片上鉄道は片上-柵原間が全通した。その後1945年9月の枕崎台風による洪水によって、2ヵ所の鉄橋が流出するという大きな被害を受けたが1946年3月には復旧し、その後柵原鉱山の発展に伴い1960年代後半、柵原鉱山とともに片上鉄道も最盛期を迎えた。 しかし1970年代に入って柵原鉱山の生産量の激減に伴い貨物の取扱量が激減し、旅客輸送も乗用車の普及と柵原鉱山で働く労働者の減少に伴い減少の一途を辿った。1987年11月には柵原鉱山の鉱石輸送が安価なトラック輸送に全面的に転換された。地元住民の存続要望があったものの、経営困難により柵原鉱山の閉山と同じ年の1991年6月30日、廃止されることになった。
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