源範頼の九州平定とは? わかりやすく解説

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源範頼の九州平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:16 UTC 版)

九州平定 (日本史)」の記事における「源範頼の九州平定」の解説

詳細は「源範頼#九州征伐」を参照 治承・寿永の乱のさなかの寿永3年1184年8月源範頼は兄の源頼朝より九州平定の命を受け、範頼軍に配属され北条義時足利義兼千葉常胤三浦義澄小山朝光仁田忠常比企能員和田義盛土佐坊昌俊天野遠景などの武将たちは出陣前日頼朝より馬を賜った。この遠征目的は、西国とくに九州内の親平氏勢力を討ち平宗盛平知盛らの平氏軍瀬戸内海方面封鎖させることであった途中、範頼は兵糧および兵船調達苦しんだが、元暦2年1185年1月豊後国武士緒方惟栄助力得て調達成功し鎌倉への帰還を願う和田義盛説得して周防国から九州への渡海実現させた。2月には、平氏家人である原田種直らを葦屋浦の戦い打ち破り長門国彦島山口県下関市)に海上拠点築いていた平氏背後遮断することに成功した。これにより、平氏軍事力大きく後退し知盛長門から動くことができず、讃岐国屋島の戦い参戦できなかった。また、これによって 壇ノ浦治承・寿永の戦いにおける源平勢力決戦の場となり、四国九州諸勢力が範頼・義経兄弟協力的であった元暦2年3月壇ノ浦の戦いでは源氏軍戦い優位に進め、ついに平氏滅亡した。範頼の活動日本史上初の東国政権成立大きく寄与したのである元暦2年5月段階では、追討使範頼・義経兄弟は、兄源頼朝主とする東国政権より、範頼は九州義経四国管領するよう定められていた。このような軍事支配のための地域権力ブロック化は、木曾義仲支配した北陸道をめぐる頼朝義仲抗争にまでさかのぼるが、ことに九州においてはブロック化影響後世にまでおよび、文治元年1185年12月天野遠景鎮西奉行任命され九州地方在住御家人統括にあたることが求められている。このようなスタイルは、鎌倉幕府鎮西探題室町幕府九州探題へと引き継がれることとなる。遠景その後鎌倉戻され少弐氏の祖となる武藤資頼が三前(筑前豊前肥前)と二島壱岐対馬)、大友能直は三後(筑後豊後肥後)、島津忠久が奥三カ国(薩摩大隅日向)の守護補任され土着した。

※この「源範頼の九州平定」の解説は、「九州平定 (日本史)」の解説の一部です。
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