浜松陸軍飛行学校 練習部
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「浜松陸軍飛行学校」の記事における「浜松陸軍飛行学校 練習部」の解説
1939年(昭和14年)9月より欧州で第二次世界大戦が始まると、翌1940年(昭和15年)よりドイツ軍は相当数を有していたパラシュート降下部隊を対北方および西方作戦で使用し、十分な成果を得ていた。日本陸軍では以前よりソビエト連邦の同様部隊計画の情報を入手して対抗戦闘についての研究はある程度されていたが、航空事情の未成熟などが原因で自国の部隊編成までは考えられてれていなかった。 1940年10月欧州駐在勤務を終えて帰国した陸軍大学校教官、井戸田勇中佐は陸軍大臣官邸において東條英機陸相ほか陸軍首脳に落下傘部隊を含むドイツ軍の用兵について説明し、これ以降落下傘部隊の建設が本格化することとなった。参考とするドイツ軍における落下傘部隊の所属(空軍)や飛行機その他の器材等の関係により、部隊建設の担当は陸軍航空本部と定められた。同年11月末、浜松陸軍飛行学校練習部臨時編成要領(軍令陸甲第56号)が裁可された。 同年12月、浜松陸軍飛行学校に練習部が設置された。編制は部長(中佐または少佐)以下、部員(主計将校、軍医、軍属を含む)、教官(少佐または大尉、および尉官)であり、落下傘降下に関する調査、研究と試験、および将校と下士官からなる練習員230名前後を教育する計画であった。部員と教官には航空総監部、教育総監部、陸軍技術本部、陸軍航空技術研究所、陸軍戸山学校からの兼務者を含み、陸軍全体の力を結集して落下傘部隊を育成する姿勢であった。また部員には医務関係者の比率が通常よりも多めに配置され、身体検査および事故に対する救急措置への配慮がなされていた。練習部の初代部長には河島慶吾中佐が補職された。 1941年(昭和16年)1月初めまでに練習部は編成を完結し、落下傘降下部隊要員は東京市牛込区にある陸軍戸山学校に移り約1か月間の訓練ののち、同市世田谷区の読売遊園にあった落下傘塔を利用して降下の基礎練習を実施した。同時に浜松では落下傘降下時の飛行法等についての研究が行われた。基礎的な練習および研究を終了した降下要員はふたたび浜松に集結して飛行機からの降下訓練を実施した。しかしさらに多量の要員教育を企図を秘匿しながら円滑に行うには浜松および三方原では不適当とみなされ、同年5月練習部は満州の白城子陸軍飛行学校に移転した。この陸軍飛行学校練習部が陸軍挺進練習部の基幹となった。
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