浜松陸軍飛行学校 練習部とは? わかりやすく解説

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浜松陸軍飛行学校 練習部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:58 UTC 版)

浜松陸軍飛行学校」の記事における「浜松陸軍飛行学校 練習部」の解説

1939年昭和14年9月より欧州第二次世界大戦が始まると、翌1940年昭和15年)よりドイツ軍相当数有していたパラシュート降下部隊を対北方および西方作戦使用し十分な成果得ていた。日本陸軍では以前よりソビエト連邦の同様部隊計画情報入手して対抗戦闘についての研究ある程度されていたが、航空事情未成熟などが原因自国部隊編成までは考えられてれていなかった。 1940年10月欧州駐在勤務終えて帰国した陸軍大学校教官井戸田中佐陸軍大臣官邸において東條英機陸相ほか陸軍首脳落下傘部隊を含むドイツ軍用兵について説明し、これ以降落下傘部隊建設本格化することとなった参考とするドイツ軍における落下傘部隊所属空軍)や飛行機その他の器材等の関係により、部隊建設担当陸軍航空本部定められた。同年11月末、浜松陸軍飛行学校練習部臨時編成要領軍令甲第56号)が裁可された。 同年12月浜松陸軍飛行学校練習部が設置された。編制部長中佐または少佐)以下、部員主計将校軍医軍属を含む)、教官少佐または大尉、および尉官)であり、落下傘降下に関する調査研究試験、および将校下士官からなる練習230前後教育する計画であった部員教官には航空総監部教育総監部陸軍技術本部陸軍航空技術研究所陸軍戸山学校からの兼務者を含み陸軍全体の力を結集して落下傘部隊育成する姿勢であった。また部員には医務関係者比率通常よりも多めに配置され身体検査および事故対す救急措置への配慮なされていた。練習部の初代部長には河島慶吾中佐補職された。 1941年昭和16年1月初めまでに練習部は編成完結し落下傘降下部隊要員東京市牛込区にある陸軍戸山学校移り1か月間の訓練ののち、同市世田谷区読売遊園にあった落下傘塔を利用して降下基礎練習実施した同時に浜松では落下傘降下時の飛行法等についての研究が行われた。基礎的な練習および研究終了した降下要員はふたたび浜松集結して飛行機からの降下訓練実施した。しかしさらに多量要員教育企図秘匿しながら円滑に行うには浜松および三方原では不適当みなされ同年5月練習部は満州白城子陸軍飛行学校移転した。この陸軍飛行学校練習部が陸軍挺進練習部基幹となった

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