挺進飛行戦隊、浜松教導飛行師団での勤務
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「新海希典」の記事における「挺進飛行戦隊、浜松教導飛行師団での勤務」の解説
卒業して航空兵少尉に任官した新海は、浜松陸軍飛行学校を経て、飛行第12戦隊附となり、公主嶺に着任した。着任後間もなく、彼は下士官兵を飛行機に乗せられるだけ乗せ、新京まで外出した。新京の街で饅頭などたらふく食べ、帰ろうというときに、突如第7飛行団長に呼びつけられた。飛行団長は飛行機による無断外出の不心得を激しく叱った。新海は泰然自若として「そういうきまりがあることは知りませんでした」と答え、周囲のものを唖然とさせた。処罰はされなかったが、その非常識ぶりは、たちまち満洲にある航空部隊に広まった。 太平洋戦争(大東亜戦争)突入直前の1941年(昭和16年)12月、新海は陸軍挺進練習部、挺進戦隊附となった。空挺部隊である挺進連隊を目的地上空まで空輸する部隊である。営外居住者の将校はトラックに相乗りして新田原の本部に通った。途中兵隊が敬礼しても殆どの将校は雑談に夢中で答礼しないが、新海だけは必ず答礼した。ビルマ戦線のラシオへの降下作戦に参加予定であったが、降下中止となり、挺進団は一旦日本本土に戻った。その後、1943年(昭和18年)6月に再び動員下令されてニューギニアへ向かった。ベナベナ攻略作戦への参加予定だったが、またも中止となり、スマトラへ転進した。新海は1944年(昭和19年)6月、浜松教導飛行師団教導飛行隊附を命ぜられ、部隊に先んじて内地に帰還した。 浜松には同期の古野一正と西尾常三郎がいた。3人は月に1回同期会を催すことにした。7月の第1回目の同期会の最中に空襲警報のサイレンが鳴った。西尾は立ち上ると、「チャンス到来。貴様ら続け」と叫んだ。「どこへ?」と古野が聞くと、「決まってるじゃないか。突撃だよ」と西尾が言う。遊郭へ行くという意味だ。高射学校勤務の古野は、外に出ると、「俺はここで失礼する」と言った。「おお」と答えた西尾は浴衣の裾をからげると走り出した。その後をうつむき加減で新海が追う。「空襲警報、空襲警報」と大声で叫びながら、曲がり角を曲がって消えた2人に、古野はなんと大胆な奴等だと半分呆れた思いでいた。その数日後、街で西尾と会った古野は「俺は臆病者だからお前たちのような真似はできん。近いうちに結婚することにした」と言った。「それもよかろう」と西尾は答えた。 8月に入り、古野は結婚した。「それもよかろう」などと他人事のように答えた西尾もその数日前に結婚していた。新海だけが独身で残った。ある日、古野が妻を連れて新海の下宿を訪ねると、新海は壁にボール紙を立てかけ、それに軍艦の写真を貼り付けて睨んでいた。「これは何だ(古野)」「フランクリン(新海)」「次のは(古野)」「ヨークタウン(新海)」「いつもああして見てるのか(古野)」「うん(新海)」「何分ぐらい(古野)」「1時間くらいかな(新海)」「ときどき写真を並べる順序を変えるのか(古野)」「変える(新海)」その後、取り留めの無い話をして夫妻は帰った。
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