挺進騎兵とは? わかりやすく解説

挺進騎兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:16 UTC 版)

永沼秀文」の記事における「挺進騎兵」の解説

1905年明治38年1月9日永沼挺進隊長春付近での交通破壊目的麻堡を出撃した。秋山送り出す際「騎兵真価認めさすことになるのだ」と語っている。ロシア軍では同日にミシチェンコ騎兵が行動を開始しているが、永沼によれば真に偶然」であった新開橋梁 挺進隊途中戦闘交えながら長春南方進出し2月12日新開橋梁爆破作業行った。しかしロシア兵発見され戦闘となり、第一中隊ロシア斥候撃退第二中隊監視小屋突入して格闘戦となり、田村馬造少尉望月上等兵戦死した挺進隊この間騎兵爆薬600個に相当する爆薬仕掛けたが、全て爆発せず、爆破効果13時間後(17時間とも)に復旧され規模とどまり物的には大きなものではなかった。ロシア側は日本軍戦死者2名について、その墓標に「神よ平和を与え給え」と記し丁重に埋葬した。この墓標存在によってポーツマス会議では永沼挺進隊進出地点までが日本軍占領地として認められ長春以南東清鉄道割譲結実する。なお馬賊は別の個所レール五箇所などを爆破した張家窪子の戦闘 挺進隊負傷者抱えつつ移動したが、ロシア軍騎兵発見され砲撃も受けるようになった永沼騎兵同士格闘戦を決意し2月14日、まず砲に向けて突撃したが、この敵は後退し徒歩戦に移る。夜に至り永沼乗馬突撃命じ騎兵同士格闘戦が生起した。日本70対ロシア側約200名の戦闘ロシア側の退却終わったが、挺進隊戦死18名、負傷44名の損害受けた永沼健在な兵力減少したため、負傷者を大営子に留め治療させ、さらに部隊再編し小部隊ごとの兵站通信線攻撃実施した奉天会戦戦われたことは知らずにいたが、会戦情報もたらされたことで挺進隊帰還の途に就き解散3月29日であった永沼挺進隊作戦行動編成以来84日、距離約2000kmにおよび、永沼挺進隊には感状授与された。永沼に対して個人感状および功三級授与されている。

※この「挺進騎兵」の解説は、「永沼秀文」の解説の一部です。
「挺進騎兵」を含む「永沼秀文」の記事については、「永沼秀文」の概要を参照ください。

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