挺進騎兵
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1905年(明治38年)1月9日、永沼挺進隊は長春付近での交通線破壊を目的に蘇麻堡を出撃した。秋山は送り出す際「騎兵の真価を認めさすことになるのだ」と語っている。ロシア軍では同日にミシチェンコ騎兵団が行動を開始しているが、永沼によれば「真に偶然」であった。 新開河橋梁 挺進隊は途中戦闘を交えながら長春南方に進出し、2月12日に新開河橋梁の爆破作業を行った。しかしロシア兵に発見され戦闘となり、第一中隊はロシア斥候を撃退、第二中隊は監視小屋に突入して格闘戦となり、田村馬造少尉、望月上等兵は戦死した。挺進隊はこの間に騎兵用爆薬600個に相当する爆薬を仕掛けたが、全ては爆発せず、爆破効果は13時間後(17時間とも)に復旧される規模にとどまり、物的には大きなものではなかった。ロシア側は日本軍の戦死者2名について、その墓標に「神よ平和を与え給え」と記し丁重に埋葬した。この墓標の存在によってポーツマス会議では永沼挺進隊の進出地点までが日本軍占領地として認められ、長春以南の東清鉄道割譲に結実する。なお馬賊は別の個所でレール五箇所などを爆破した。 張家窪子の戦闘 挺進隊は負傷者を抱えつつ移動したが、ロシア軍騎兵に発見され、砲撃も受けるようになった。永沼は騎兵同士の格闘戦を決意し、2月14日、まず砲に向けて突撃したが、この敵は後退し徒歩戦に移る。夜に至り永沼は乗馬突撃を命じ、騎兵同士の格闘戦が生起した。日本側70名対ロシア側約200名の戦闘はロシア側の退却で終わったが、挺進隊は戦死18名、負傷44名の損害を受けた。 永沼は健在な兵力が減少したため、負傷者を大蘭営子に留めて治療させ、さらに部隊を再編し、小部隊ごとの兵站、通信線攻撃を実施した。奉天会戦が戦われたことは知らずにいたが、会戦の情報がもたらされたことで挺進隊は帰還の途に就き、解散は3月29日であった。永沼挺進隊の作戦行動は編成以来84日、距離約2000kmにおよび、永沼挺進隊には感状が授与された。永沼に対しては個人感状および功三級が授与されている。
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