河井家の概要とは? わかりやすく解説

河井家の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:37 UTC 版)

河井継之助」の記事における「河井家の概要」の解説

河井家の先祖は、近江膳所藩本多氏家臣だったという説と、蒲原郡河井出身地侍という2つの説がある。本多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代越後長岡藩主・牧野忠成嫡子光成藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり河井清左衛門と忠右衛門兄弟長岡帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられそのまま牧野家新参家臣となったはじめに兄・清左衛門家系は、その惣領義左衛門近習目付と班を進め大組入りした。戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門分家筋に当たる。 弟の忠右衛門初め祐筆役となり、その後郡奉行となったこの間加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知302人扶持与えられ宝永4年1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったのである。つまり河井家には、清左衛門初代とする本家50石)、忠右衛門初代とする分家100石、のちに20加増)、信堅を初代とする分家120石)があった。河井継之助の祖である信堅は、当初302人扶持であったその後勘定頭新潟町奉行歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続認められ120取りの家となった推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職歴任した。継之助の父で郡奉行務めた4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情20減らされ120となった『河井継之助傳』にあるが、これは足高喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われるちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置能力評価の高い役方民政・財政)の要職担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家中でも優位にあったと思われるこうした河井家の立場は藩内や国内情勢不安の中、継之助が慶応元年1865年)に郡奉行抜擢され藩政改革主導しその後役職重ねとともに藩の実権となっていくこととなった素地であったといえる。継之助の祖父までの新潟町奉行就任期間については「新潟町奉行#天保7年までの歴代新潟町奉行」を参照。 なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。まず第1に長岡藩家格に「奉行格」という家格存在しなかった。そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行郡奉行などとは別に長岡藩では、家老補佐する役職として「奉行職御奉行)」が存在し藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義老職)にもなった。 継之助は中老となる前、公用人郡奉行町奉行兼帯となった後に「御奉行加判」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。したがって河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。加えて奉行奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行同等格式)を指し奉行本職就任したけでないちなみに長岡市史』では町奉行番頭兼務原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭就任した可能性が高い[要出典]。

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