母親探し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:47 UTC 版)
「すずらん (テレビドラマ)」の記事における「母親探し」の解説
上野駅に降り立った萌は、次郎に手渡されたメモに下宿先が書かれていたものの土地勘が無く、人に尋ねている合間に生活費をスリに遭い途方に暮れる。その晩、「猫又食堂」で手持ち僅かな全財産で食事をするが、店主で女将のとしの計らいから住み込みで働くようになる。太平洋戦争が影を落とす中、ここで永年の友人となる民子らと知り合い、駅舎などの設計建築に携わっている鉄道省技師の日高正憲と結婚するに至る。やがて光太郎をもうけたが、正憲は用務先の満州で戦乱に巻き込まれ帰らぬ人となった。(※朝ドラ史上、最も出番が少なく影の薄いヒロインの夫役だと思われる) 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で「猫又食堂」が全焼。萌は光太郎を連れて明日萌へ疎開し、竹次郎など若い男子が出征したことで人手不足となっていた明日萌駅や中村旅館を手伝う。終戦直前に留萌へ出張していた次郎が北海道空襲に巻き込まれ、入院先の病室で萌は次郎と玉音放送を聴く。 終戦後、台東区の芸者置屋「鶴廼屋」で働くしのから萌の母親と会った人がいると光太郎と共に呼び寄せられ、賄いとして住み込みで働き始める。父を憎悪し相場師へ変貌した勇介と再会し、竹次郎や民子の北海道での調査と勇介の述懐から橘と萌の母親に何かしらの接点があることまで判明する。父との仕手戦に負け失意に落ちたところで勇介と萌は再び婚約するが、萌が明日萌に報告しに帰省した矢先、勇介は逆恨みの暴漢に刺殺され帰らぬ人となる。 勇介の遺骨を持って明日萌に帰った萌は、幸福学園の山岡と再会。山岡に対する憎しみを解き、和解した萌は教師として働き始めた。 1952年(昭和27年)、橘は余命僅かとなった萌の母親・川本富貴に会わせるため匿っていた鎌倉の別荘へ萌を呼び、念願の再会を果たす。富貴と一緒に明日萌に向かい、長い汽車の旅の中でそれぞれの生い立ちを語り合う。萌の実の父親は、かつて橘が手掛けていた別の炭坑の坑夫で、富貴と駆け落ちした後に落盤事故を起こした濡れ衣を着せられ自死。その恨みから富貴は橘の脚を刺して逃げ去ってしまう。その頃、妊娠していることに富貴は気づいたという。ようやく蟠り解けるもつかの間、富貴は出身地でもある青森で力尽きてしまう。 1960年(昭和35年)12月、石炭の衰退に伴う鉱山の閉鎖により路線は存続するものの、明日萌駅は廃止となることが決まる。主催者の町は歴代駅長に廃止のことや式典の招待を伝えずにおり、退職後は富山の路夫の家で隠居していた次郎が事実を知ったのは前日であったことから、萌や中村家は式典出席をボイコットする。次郎は路夫の勧めで富山から航空機で札幌へ向かい、最終列車で明日萌に降り立ち、駅の最期を見送ることができた。そして灯りが消えた駅舎に向かい皆で「ありがとう」と感謝の気持ちと思いをぶつける。集った人々は、萌や横田を除いてやがて明日萌の町を離れたり、次郎らはほどなくして天寿を全うした。
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