死と波紋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:20 UTC 版)
1961年に公開された映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲーブルが撮影終了後に急死したことも重なり、精神的に不安定になり再び入院。このときは元夫ディマジオが彼女を支えている。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まず、結局、主役を降ろされてしまう(『女房は生きていた』は、翌1963年にドリス・デイ主演で公開された)。 1962年8月5日、ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室で全裸で死亡している所をメイドが発見した。36歳だった。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。 これについて警察は司法解剖を行い、「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」と結論付け、自殺や他殺の可能性を否定している[要出典]。因みにモンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。 ドラッグ・オーバードースであるとの声もある 上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった[要出典]。 1980年前後以降は、何物かによってモンローが殺されたとする説が主張されるようになった。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、またモンローが遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録 には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からはモンローの日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある。 また上述のとおり、大統領ジョン・F・ケネディと1950年代より不倫関係にあったとか、さらに弟で時の司法長官ロバート・ケネディとも不倫関係にあったとする証言がモンローの死後さかんに現れるようになった 上に、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことや、これらの関係を知ったFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ケネディとモンローのみならず、ケネディとマフィアの関係についても度々忠告していたとする噂も、しばしばこの謀殺説を裏づける根拠として語られる。またこれらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けるために謀殺後に密かに処分したという説もある[要出典]。 しかし、上述のとおりモンローとケネディが肉体関係をもっていたという確実な証拠は現在にいたるまで見つかっておらず、近年の研究でも、モンローの死をめぐる謀殺説はあくまで出所の不確かな噂にすぎないとされる。モンローとケネディの関係をめぐるマフィアの介在やFBIの介入も、証拠にとぼしい都市伝説として退けられている。
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