歴代弾左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:32 UTC 版)
以下は歴代弾左衛門の概要である。 代諱法名在職期間生没年1弾左衛門集房 浄證院集開 ? - 1617年 2弾左衛門集季(小次郎) 集道 ? - 1640年 3弾左衛門集信・集春(助右衛門) 乗蓮 ? - 1669年 4弾左衛門集久(介次郎) 乗誓 1669年 - 1709年 ? - 1709年 5(吉次郎) (夭逝) ? - 1709年頃 6弾左衛門集村(浅之助) 浄圓禅門・親松齊 1709年 - 1748年 1698年 - 1758年 7弾左衛門集囿(勝之助・織右衛門) 晴雲院釈集誓信士 1748年 - 1775年 1722年 - 1788年 8弾左衛門集益(要人) 即生院釈真誓信士 1775年 - 1790年 1746年 - 1790年 9弾左衛門集林(浅之助) 凉應院釈諦成居士 1793年 - 1804年 1780年 - 1804年 10弾左衛門集和(金太郎) 光照院釈速往居士 1804年 - 1821年 1792年 - 1821年 11弾左衛門集民(富三郎) 瑞華院釈能量居士 1822年 - 1828年 1808年 - 1828年 12弾左衛門集司(周司)弾譲 至誠院釈深明居士 1829年 - 1840年 1815年 - 1872年 13弾左衛門集保(小太郎)弾直樹 心樹院釈深楽居士 1840年 - 1868年 1823年 - 1889年 東京都台東区今戸の本龍寺にある弾左衛門の墓には「矢野氏墓」と刻まれてあり、墓碑には1960年4月没の15代目の子孫まで全員が矢野姓で記されている。一方、兵庫県にある大規模な墓地には「弾」とあり、明治以降の子孫は弾姓を名乗っているという説もある。一方『台東区史: 通史編』には「「弾」が苗字であるかのように誤解される向きもあるが、「弾」を苗字として使ったのは十三代目だけだった。なお十三代目は、明治三年(一八七〇)十二月五日に「弾直樹」と改名し、その養子も「弾良祐」を名乗り、「弾」の苗字が継承される」とある。 初代直樹の四男祐之助(二代目直樹。別名は弾慎平、本龍寺墓碑では矢野慎平)は東京製皮合資会社の前身である弾北岡組を共同経営しており、1945年2月に没している。なお慎平は「弾慎平」名義で金20円を第2回同情融和大会(1921年)に寄付している。親戚は長野県松本市や栃木県宇都宮市、愛知県などに現存しているといわれる。後裔が仙台市にいるという説もある。 皮革産業資料館副館長の稲川實によると、2015年3月、銀座で「時代を彩った名靴・流行靴30選」と題する特別展が開かれた折、「アンケート用紙に住所氏名電話番号を書き、その上に戸籍謄本まで添え、『私の家系を五代遡ると、弾直樹に辿り着きます』、『弾慎平の長女寿美江は、私の祖母です』という方がおいでになった」という。
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