武田神社の創建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 07:16 UTC 版)
1899年(明治32年)には信玄祭祀神社建設運動が再燃し、『山梨日日新聞』によれば同年5月24日には県内の有志が5万円、県外の関係者から5万円の計10万円の募金計画が起こり、山梨県知事の小野田元熈がこれに賛同したことを報じている。同年6月20日には甲府市太田町の望仙閣において武田神社建設協議会が開催され、小野田知事のほか栗原信近、近藤喜則、雨宮広光、渡辺信、八田達也、深沢嘉猷、加賀美嘉兵衛らが出席し、発起人には若尾逸平、広瀬久光、三神有長、山口嘉兵衛らが名を連ねた。こうして山梨県内外の政財界有志により「武田会」が結成され、神社創建運動が再燃する。 1904年(明治37年)の日露戦争後には神社に武神・軍神を祀ることが奨励され、軍神と評される武田信玄を祀った神社創建の機運が高まった。1906年(明治39年)には甲府で一府九県連合共進会が開催され、この時は山梨県知事・武田千代三郎の夫人を発起人代表として義金が募られており、このころには「武田会」は会としての実態を失っていたと考えられている。 また、武田信玄は『甲陽軍鑑』に記される父親の信虎を追放した親不孝な人物とする評価が存在していたが、明治国家では「忠孝」が重視されていたため、明治後期に山梨県の郷土史家の間ではそれを覆す信玄の事跡発掘が行われ、明治37年の内藤慶助『武田信玄事跡考』、大正4年の土屋操『甲斐史』など武田氏研究にも影響を与えた。 1915年(大正4年)、大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、1916年(大正5年)には山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立される。1919年(大正8年)には社殿が竣工し、信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた。別格官幣社への昇格運動は上杉謙信を祀った上杉神社が指定されていたことへの対抗意識も加え、郷土史家は内務省が昇格条件に求める勤皇事跡の発掘に務めた。 4月12日に行われていた例大祭には神輿の後に地元相川住民による武田二十四将を模した騎馬行列が行われており、1947年(昭和22年)からは甲府市と市商工会議所、観光協会の共同開催で桜祭りが開催され、最終日を例祭に合わせていた。戦後には観光業振興により武田信玄が歴史的観光資源として着目され、1966年(昭和41年)からは甲府信玄祭りが開催され、以来は行政主導による都市祭礼としての信玄公祭りが4月12日前の土日に開催されており、地域住民による例祭と共存している。 境内にある宝物殿(入場は有料)には、太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇、武田二十四将図等、武田家ゆかりの貴重な品々が収められている。
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