武田氏の滅亡から横死とは? わかりやすく解説

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武田氏の滅亡から横死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:48 UTC 版)

穴山信君」の記事における「武田氏の滅亡から横死」の解説

天正8年1580年)、出家し雪斎(ばいせつさい)と号した天正9年1581年12月、勝頼の寵臣長坂長閑跡部勝資らを憎み織田信長内通し始め翌年2月、勝頼が娘を信君嫡男に娶らせる約束反故にして武田信豊の子に娶らせるとしたことに激怒して家康降ったという話が、飯田忠彦の『野史』に見られる天正10年1582年)、織田信忠甲斐侵攻に際しては、2月25日甲府にいた人質逃亡させ、甲斐一国信君への拝領武田氏名跡継承条件に、2月末に徳川家康誘い乗り信長内応した(『家忠日記』、『信長公記』、『記録御用所本子文書』)。その結果信君織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏従属国衆となり、徳川家康与力として位置づけられた。 同年5月には信長への御礼言上のため家康随行して上洛し、近江国安土滋賀県近江八幡市安土町)において信長謁見する。堺(大阪府堺市)を遊覧した翌日6月2日京都へ向かう途上明智光秀謀反信長の死(本能寺の変)を知り家康と共に畿内脱しようとするが、宇治田原で郷民一揆襲撃受けて亡くなった。『家忠日記』では自害、『信長公記』では、一揆により生害されたと伝え殺害自害両方の意味がある。 一方、『フロイス日本史』では、信君家康一行から遅れて移動していたところを落ち武者狩り執拗な襲撃遭い殺害されたとする。『東照宮御実紀』では、信君家康疑い別行動取ったところを光秀から家康追討の命を受けた一揆勢によって家康誤認されて、家臣帯金美作守らと共に宇治田原殺害されたとするこのように自害ではなく落ち武者狩りや一揆によって殺害されたとする資料見受けられる一方別行動取ったとされる家康はかろうじて三河国帰国した伊賀越え)。 『甲陽随筆』では墓所池(内)村木津川西南段ノ岡と記されている。法諱霊泉寺殿古道集公大居士

※この「武田氏の滅亡から横死」の解説は、「穴山信君」の解説の一部です。
「武田氏の滅亡から横死」を含む「穴山信君」の記事については、「穴山信君」の概要を参照ください。

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