横須賀市の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:00 UTC 版)
詳細は「横須賀海軍施設ドック」および「東京湾要塞」を参照 神奈川県南東部の三浦半島に位置し東京湾に面する横須賀には、1853年(嘉永6)年に江戸幕府の勘定奉行・小栗忠順やフランス公使・レオン・ロッシュの主導で横須賀製鉄所が開設されると、明治維新後は明治政府に引き継がれ横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え軍艦の建造を担った。 さらに1884年(明治17年)12月15日に日本海軍の横須賀鎮守府が設置されたことを契機に軍港都市として発展し、1907年(明治40年)2月15日に市制が施行された。1937年(昭和12年)からの第三次海軍軍備補充計画および1939年(昭和14年)からの第四次海軍軍備補充計画に伴う艦艇建造ラッシュにより市内は活況を見せたが、戦局の悪化に伴い1944年(昭和19年)の空母「雲龍」と空母「信濃」を最後に大型艦の建造を停止。急造型の駆逐艦や潜水艦や海防艦、特攻兵器の生産に転換した。 また、明治期以来、三浦半島は対岸の房総半島と共に東京湾防衛のための重要拠点と見做され、日本陸軍の手により堅固な砲台が建設されるなど要塞化(東京湾要塞)が進められた。太平洋戦争の時期には海防が中心の防衛思想に、航空機技術の発達に伴い防空の概念が加わり、日本海軍の手により軍港周辺に防空砲台の配備が進められたが、1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲以降はその傾向に拍車がかかり、三浦半島全体に防空砲台が増設された。1945年(昭和20年)、本土決戦が差し迫ると横須賀では相模湾からのアメリカ軍上陸に備えトーチカや洞窟砲台や狙撃陣地などの防御陣地の構築、回天や海龍などの特攻兵器の配備が進められた。
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