桂との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
「桂園時代」も参照 山縣は次第に桂に対する不信を強め、寺内正毅を重用するようになった。また元老として政治的問題には強い影響力を持ち続けた。外交問題などでは自分の意見に固執することはなかったが、軍縮や公式令による軍令における首相権限の強化など、陸軍の権限が抑制される事態には徹底的に対抗している。明治40年(1907年)7月のハーグ密使事件の際には、大韓帝国皇帝高宗が天皇に譲位するべきであると論じているが、対応は韓国統監である伊藤に任せている。明治41年(1908年)5月には第10回衆議院議員総選挙で政友会が過半数を得たこともあり、山縣は西園寺内閣を倒すこととした。山縣は西園寺内閣の社会党取締が不十分であると上奏し、井上馨らにも働きかけを強めた。内務大臣であった原敬は「種々の奸計」「陰険手段」と評している。体調を崩していた西園寺首相は辞任を決意し、後継に桂を推薦した。 第2次桂内閣の成立にあたっては、山縣は早いうちから寺内陸相の留任を求め、内閣の目付役としようとしていた。また桂内閣が軍縮に走るのではないかと警戒していた。実際、財政上の困難から桂内閣は山縣の提案した陸軍二個師団増設を先送りする決定を行っている。しかし寺内も桂に同調することがしばしばあり、弱気になった山縣は、陸軍の後輩らが次々と没したことを受け、「明日は我が身か」というコメントを残している。明治42年(1909年)には日韓併合が既定路線となり、伊藤が韓国統監を辞任して枢密院議長に就任する運びとなったが、山縣は議長を辞任して、平の枢密顧問官に就任している。しかし10月26日には伊藤が暗殺され、山縣は哀悼の歌を詠んでいる。明治44年(1911年)8月30日には桂がふたたび西園寺に政権を譲り、第2次西園寺内閣が成立した。この時期の桂・西園寺間の政権受け渡しに関して山縣ら元老は介入できず、事後承諾を求められるにすぎなかった。桂はこの頃徳大寺実則内大臣に対し、「元老は老衰した」と述べ、後継の元老となる意志を見せていた。 明治45年(1912年)2月11日には辛亥革命が発生し、清が倒れ、中華民国が成立した。これを警戒した山縣はロシアと協議して満州に1~2個師団を派遣するべきであると提言しているが、西園寺内閣や陸軍にも支持者は現れなかった。しかしその後の混乱により、山縣と陸軍は軍拡張、特に第2時桂内閣時に先送りされた二個師団増設が切実な問題として認識するようになった。7月30日、明治天皇が崩御した。明治天皇は病床で皇太子嘉仁親王(大正天皇)に対して「桂に大事を託せ」と言い残しており、その言葉を山縣も聞いていた。山縣は天皇崩御に動揺する桂が体制を整える前に、他の元老の同意を取り付け、桂を内大臣兼侍従長として宮中入りさせ、政治生命を事実上断とうとした。
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