株式の瞬発的民主化
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1945年11月、GHQは公債発行によって臨時支出をまかなった。日銀は1946年1月に禁止されるまで国債を引き受けつづけた。しかし軍需融資は続けられた。1947年2月から1949年3月までは復興金融金庫債1680億円が発行され、これを日銀が引受けた。 日銀が資金を創出していなかったら、以下に書く大規模な民主化は達成されなかったであろう。 証券処理調整協議会(Securities Coordinating Liquidation Committee)に販売が委ねられた株式は根拠法が多岐にわたった。持株会社整理委員会令によるものが76億円で、会社証券保有制限令によるものが14億円であった。これら合計90億円は、1945年末の国内株式総額437億円の約2割であったが、「その他の法人」保有割合24.6%にほぼ符合する。閉鎖機関整理委員会令によるものが14億円であった。売却を強制された株式には、戦時補償特別税や独占禁止法などによるものもあった。総計184億円であった。こうなると437億円の約4割である。このうち協議会は141億円の販売を任された。売出しは1947年6月に始まり、1951年6月に完了した。141億円の半分以上が1949年に売れている。買い手は1950年3月までの調べによると、従業員(38.5%)、入札(23.3%)、売り出し(27.7%)であり、56人の財閥家族の持っていた株式2億2300万株のうち7%が約15万人の従業員・地域住民に分散された。売却代金は旧所有者に返却され、その62.51%が旧債務に、またわずか12.13%が租税公課の支払に充てられた。これでこそ帝国銀行は三井本社向けの貸付を回収できた。三井だけでなく、財閥系銀行の対本社焦げ付きも、時価売り出しによって順調に回収された。1945年末に59.8%が三井本社の持分であった三井鉱山は、過度経済力集中排除法により三井金属鉱業が分離されて、さらに株式売却を強制された結果、1951年末の筆頭株主は野村証券(5.3%)になった。 1948年末結成のアメリカ対日協議会が、「トップのいない企業結合体」を容認した。 そして、1947年の独占禁止法第10条が1949年に骨抜きにされた。改正前は「金融業(銀行・信託・保険・無尽または証券)以外の事業を営む会社は、他の会社の議決権株を取得してはならない」としていたものを、1949年には適用を社債まで広げる代わりにライバル会社でなければ株式・社債を取得できることになったのである。 個人持株の比率が最も高かったのは1949年末であって、その後ドッジ・ラインにより割合が減り始めた。この傾向は1978年もなお進行中であった。個人から流出した株式は金融機関と事業法人に向かい、旧財閥銀行が主導する株式の持ち合いが再編された。逆コースにより財閥解体が株式会社制度を認めた上での有償株式分散となったからであった。 そしてシャウプ勧告の法人擬制説が法人税を個人所得税の源泉徴収的前取りと認識し課税の重点から除外した。 1951年、持株会社整理委員会は『日本財閥とその解体』を編纂し、5年にわたる活動を総括した。7月、委員会は証券処理調整協議会と共に解散した。委員会の資料は国立公文書館が所蔵し、一部は国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧が可能である。
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