東美鉄道の運営から名鉄合併まで
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「東美鉄道」の記事における「東美鉄道の運営から名鉄合併まで」の解説
東濃鉄道から営業権を譲り受けた東美鉄道は、輸送効率を上げるため1,067mm軌間への改軌と電化を1928年(昭和3年)10月に実施した。同時に広見駅付近の経路変更が太多線とともに行われ、1929年(昭和4年)1月には名鉄今渡線が広見駅まで延伸して広見線となり、東美鉄道との旅客・貨物の連帯運輸を開始した。電化後は名古屋鉄道から4輪単車(デシ500形、537・538号)を譲り受け、デ1形(1・2号)とした。電力は名古屋鉄道から受電した。新駅の設置にも積極的で、地元から要望のあった前波駅や学校前駅などを新設している。 八百津方面への延伸は1930年(昭和5年)4月に兼山駅まで、同年10月に八百津駅まで竣工した。錦織までの延伸は、大同電力の電源開発が延期されたため中止された。このほか、街の外れにあった御嵩駅を中心部(御嵩町中地内)へ伸ばすための免許を1929年(昭和4年)11月に取得していたが、不況で着工に至らなかった。 東美鉄道の業績は当初バス・トラックの進出と不況で思うように上がらず、年4、5分あった配当も1930年(昭和5年)からは無配当となっていた。しかし日中戦争の勃発で亜炭の需要が高まると成績は好転し、配当も復活した。大同電力の電源開発も丸山ダムこそ延期したものの、沿線には他に兼山ダムがあり、同ダム建設の資材搬入に東美鉄道が活用され、営業利益に繋がっていった。1940年(昭和15年)下半期(10月1日 - 3月31日)の決算では18,540円12銭5厘の営業利益を計上し、株主配当と役員賞与の支給も行われている。 その後、戦時体制の時勢によって東美鉄道は名鉄との合併機運が高まり、1942年(昭和17年)11月に両社の間で合併契約が取り交わされた。両社は元より新広見駅を介して密接な関係にあり、戦時要請による合併に異議はなかった。地元の反応もまた然りで、かつての東濃鉄道国有化と同じく、地域経済の発展に繋がるならば経営主体について特に問題としなかった。合併比率は名鉄株10に対して東美株9とされ、東美鉄道の従業員は現給のまま名鉄に新規採用される形を取った。 1943年(昭和18年)3月に合併が実行され、東美鉄道の鉄道路線は全線が名鉄の東美線となった。東美線は1948年(昭和23年)5月の路線名改定で広見線と統合された。御嵩町中地内への未成線は合併時に土木工事まで進んでいたものの、軌条・電線類が入手できず戦時中に工事を継続できなかった。同区間は1952年(昭和27年)4月1日にようやく完成し、従来の御嵩駅を御嵩口駅に改めた。一方、八百津 - 錦織間の免許線は1943年(昭和18年)8月10日に起業廃止となり、のちに電力会社の手によって専用鉄道として建設された(丸山水力専用鉄道を参照)。
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