東美鉄道の運営から名鉄合併までとは? わかりやすく解説

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東美鉄道の運営から名鉄合併まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:38 UTC 版)

東美鉄道」の記事における「東美鉄道の運営から名鉄合併まで」の解説

東濃鉄道から営業権譲り受けた東美鉄道は、輸送効率上げるため1,067mm軌間への改軌電化1928年昭和3年10月実施した同時に広見駅付近経路変更太多線とともに行われ1929年昭和4年1月には名鉄今渡線広見駅まで延伸して広見線となり、東美鉄道との旅客貨物連帯運輸開始した電化後名古屋鉄道から4輪単車デシ500形、537・538号)を譲り受けデ1形1・2号)とした。電力名古屋鉄道から受電した。新駅設置にも積極的で、地元から要望のあった前波駅学校前駅などを新設している。 八百津方面への延伸1930年昭和5年4月兼山駅まで、同年10月八百津駅まで竣工した錦織までの延伸は、大同電力電源開発延期されたため中止された。このほか、街の外にあった御嵩駅中心部御嵩町中地内)へ伸ばすための免許1929年昭和4年11月取得していたが、不況着工に至らなかった。 東美鉄道業績当初バス・トラックの進出不況思うよう上がらず、年4、5分あった配当1930年昭和5年)からは無配当となっていた。しかし日中戦争の勃発亜炭需要が高まると成績好転し配当復活した大同電力電源開発丸山ダムこそ延期したものの、沿線には他に兼山ダムがあり、同ダム建設資材搬入東美鉄道活用され営業利益繋がっていった。1940年昭和15年下半期10月1日 - 3月31日)の決算では18,54012銭5厘の営業利益計上し株主配当役員賞与支給行われている。 その後戦時体制時勢によって東美鉄道名鉄との合併機運高まり1942年昭和17年11月両社の間で合併契約取り交わされた。両社元より新広見駅を介して密接な関係にあり、戦時要請による合併異議はなかった。地元の反応もまた然りで、かつての東濃鉄道国有化同じく地域経済の発展に繋がるならば経営主体について特に問題としなかった。合併比率名鉄10に対して東美9とされ、東美鉄道従業員は現給のまま名鉄新規採用される形を取った1943年昭和18年3月合併実行され東美鉄道鉄道路線全線名鉄東美線となった東美線1948年昭和23年5月路線改定広見線統合された。御嵩町中地内への未成線合併時に土木工事まで進んでいたものの、軌条電線類が入手できず戦時中工事継続できなかった。同区間1952年昭和27年4月1日にようやく完成し従来御嵩駅御嵩口駅改めた一方八百津 - 錦織間の免許線は1943年昭和18年8月10日起業廃止となり、のちに電力会社の手によって専用鉄道として建設された(丸山水力専用鉄道参照)。

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