東洋町自治会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:52 UTC 版)
「松原地区 (四日市市)」の記事における「東洋町自治会」の解説
(呼び名はとうようちょう。松原の石取祭の所属では東洋町祭車) 東洋紡績富田工場正門前の企業城下町。東洋町は東洋紡績富田工場が1917年(大正6年)に紡績工場が操業を開始して以来東洋町を中心に富洲原商店街が形成されて東洋町商店街を中心に1917年(大正6年)6月に会員数165名からなる富洲原商工会が結成された。富洲原商工会の会長には伊藤平治郎。富洲原商工会の副会長には生川平三郎と平田佐矩と加藤正家富洲原町長と土屋東洋紡績富田工場長が就任して発足した。東洋紡績の建設を機会に商工業の町として脱皮発展しようとする意気ごみが表れていた。1919年(大正8年)に、国鉄富田駅の富洲原口が開設されたため、東洋町商店街から→東洋紡績富田工場の間の道を通り→富田町の代官町から→国鉄富田駅へ直接つながるルートが整備されて交通量が増加した。ますます東洋町商店街及び西元町商店街が発展した。富洲原商店街に愛知銀行や四日市銀行と富田一色出張所が開設された。昭和に入り、東洋町から西元町にかけての商店が西栄会という連合会を組織した。東洋紡績の会社名の東洋が由来の商店街である。東洋紡績富田工場勤務の4000人の従業員が付近の松原西元町社宅と松原宮町社宅や寮に居住するようになり、大正時代末期には多くの店が軒を並べて、三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)に富洲原商店街が形成された。夜11時まで商店街の店が開店して若い人や女子工員目当ての男性も多く東洋町商店街に集結していた。店舗は複数の業種が分布していて、以下の種類の店が立地していた。 呉服店、洋品店、米屋、八百屋、魚屋、理髪店、金物店、うどん屋、時計店、宝飾店、化粧品店、小間物店、履物店、菓子店、酒屋、肉屋、料理店、食堂、自転車屋、写真店、映画館 1919年(大正8年)には国鉄富田駅に富洲原口が開設された北側のルートが造成された事で、東洋町から→東洋紡績富田工場を通過して→国鉄富田駅に行くルートに道路が建設された。国鉄富田駅に行く連絡道路の両側に東洋紡績富田工場が東側工場と西側工場に分離していて、直接南側へ抜けると国鉄富田駅に貫通しており、富田から→東洋町商店街に行き東洋町から→西元町商店街に行き、西元町から→富田一色地区へ行くルートが富洲原地域の買い物客で賑わった。1500人の従業員がいた平田紡績の労働者が購買する天ヶ須賀から→川越町の天神町商店街へ行き、天神町から→東洋町商店街に行き、東洋町から→国鉄富田駅へ行く購買ルートが創設された。第二次世界大戦中は統制経済で商業活動が停滞していたが、戦後いち早く(東洋町発展会)が結成されて、戦後に同時に発足した(富洲原商店連合会)と表裏一体の協力体制で商店街再建に乗り出した。富田まで東洋紡績富田工場を通過する道路が閉鎖されて、東洋町が袋小路となった事、工場の合理化や繊維不況のため東洋紡績富田工場の従業員が減少したこと、四日市中心部の諏訪栄町商店街との交通が便利となり、購買人口が著しく減少して、富洲原の住民のみの購買力に頼る商店街となった。過去には伊勢湾台風で壊滅的被害があったが、戦後に東洋町発展会が東洋町通りでの歩行者天国の試み、松原の石取祭の際の東洋町発展会による東洋町商店街での夜店の出店の実施、東洋町通りでの戦後のアーケードの創設と平成時代に行ったアーケードの撤去、1992年(平成4年)4月4日の四日市の四日の市にちなんだ記念のイベントを実施した。四日市中町銀座通り商店街と並び三重県下有数の賑わいがあった。別名「銀座町商店街」と呼ばれていた。
※この「東洋町自治会」の解説は、「松原地区 (四日市市)」の解説の一部です。
「東洋町自治会」を含む「松原地区 (四日市市)」の記事については、「松原地区 (四日市市)」の概要を参照ください。
- 東洋町自治会のページへのリンク